大工の仕事・小さな村の大工の棟梁

2019-02-21 17:03

2018年9月下旬、わが村に新しい家を建てるための地鎮祭が執り行われた。かつては家を建てる際にはどこでも執り行われたとても大切な行事のひとつだったと思うが、今日、このような儀式を見る機会はなかなかないのではないだろうか。
神主さんを招聘し、建築の土地を清めて頂き、その家が安泰で幸せな暮らしができることを願う。
施主と大工の棟梁が立ち会い無事に家が建てられることを願う。地鎮祭の段取りはすべて大工の棟梁が取り仕切る。


地鎮祭

地鎮祭が終わるとすぐに建築にとりかかる。今では2x4方式で、工務店は企業化されている趣があるが、こんな小さな村では、たった一人の大工の棟梁が引き受けている。もちろん、大工のネットワークがあり、大きな材木を運ぶ弟子や協力者、左官の職人、水道、電気工事の専門職など、すべてを棟梁がさい配する。
棟上げ式もまた、小さな村ならではの。なんと、コンテナに急ぞろえのお供え物。そして、棟梁の仲間、村の若者が手伝いにくる。

棟上げの祭事 そして後日家の落成


2019年1月、近くの村の新築の依頼を受けて建築が始まった。1月中旬に地鎮祭を行い、約3週間後には棟上げを行った。その間に、倉庫で梁や木材の仕上げをする。棟上げには、仲間の協力が欠かせない。息子の友人も駆けつけてくれた。
若者が身軽に梁の上で仕事をする姿に、何か明るい未来を感じるのは私だけだろうか?不安定な若者たちだが、きっと今日の大人たちの背中を思い出し大丈夫だろうと。棟梁の妻の仕事も欠かせない。棟梁の苦手な経理や庶務、そして、協力してくださった人々への心遣い。そうしたまさに縁の下の力持ちがあっていい家が建つのだろう。

棟上げはみんなで力を合わせて。棟梁の妻は打ち上げの接待準備

我が村の、今日では1軒となった工務店、店主兼大工の棟梁は様々な地元の人々の依頼に対応せねばならず、ひっきりなしの仕事に追われている。新築の仕事だけでなく、改装、修理ほか、こまごまとしたリクエストが寄せられる。1昨年より、強力な助っ人として、息子が手伝いをはじめた。棟梁としては、赤子のような大工の見習いに四苦八苦しているだろうが、どこかでにんまり喜んでいるようだ。還暦を迎えた棟梁にとって、若い力ほどありがたいものはない。彼の年齢では、材木一つ担ぐにもなかなかきつい仕事となっている。彼の祖父は船大工だった。その祖父の背中から大きな影響を受けて、今日の棟梁としての自分があるように、自分の息子もまた、棟梁の背中を見て、育つことを願っているかもしれない。

彼の仕事はとても丁寧な事で定評がある。素人の私でさえも、彼の仕事の丁寧さがわかる気がする。さらに、家を建てるということだけでなく、そこに住む人への思いやりが、ほんのささやかな一腕を加えていることで滲み出ているような気がする。

3年前、80歳になった老夫婦が家を新築した。その際には、家財道具の一時引っ越しを手伝い、さらに家が完成してからは、車を持たない老夫婦の為に、新しい洗濯機や冷蔵庫など家電道具の購入から搬送、取り付けまでを細やかに手伝っている。村の大工だからこその何とも言えない心配りであり、彼の人柄である。
すべての作品には、必ず作者の人柄と思いがそこに見られる。

家を建てることは大工の仕事だが、最終的な仕上げは依頼主がしていく。棟梁は建てた家で、明るく暖かい家庭が育まれることを願っているだろう。


シンガポール人 佐田岬の休日

2019-01-19 08:56

クリスマスの日、私の長年の友人、ジェシーが佐田岬にやってきました。彼女はシンガポール人。
最近ではほぼ毎年あるいは2年に一度はここ、佐田岬の我が家にやってきます。季節は夏であったり、秋であったり、桜の季節てあったり、そして今回は冬にやってきました。一年中常夏のシンガポール人にとって、寒さになれるまでは何かと大変でした。頭が痛い、腰が痛い、おなかがおかしい、足がとても痛む等々。彼女の日本での滞在はほぼ2週間から3週間。そのほとんどをここ佐田岬で過ごします。そして、ツーリストではありえない貴重な体験をするのです。
彼女の好奇心もさることながら、私は、地元の人たちの対応性、臆することのない受け入れにいつも感謝し、そして感心します。英語が話せるわけでなく、外国人に慣れているわけでなく、それでも自分たちの言葉で、時に片言英語を楽しみながら、この異邦人を受け入れるのです。
彼女の滞在期間の体験を紹介しましょう。
ほぼ毎年のように来ている彼女には地元にたくさんの知人、友人ができています。
そして我が兄弟、姉妹も常に協力してくれ、ときには家族以上のおもてなしをしてくれています。
大阪に到着した彼女は私の弟に拾われ、車で帰ってきました。そして、彼の協力で、九州への初トリップ。
佐田岬の先端から、九州佐賀関まではフェリーで70分、手軽に日帰りもできる位置です。まずは、別府の地獄めぐり。
温泉ではあるけど、ゆったりつかるところではない別府の7つの地獄のうち、海地獄と血の池地獄をめぐりました。
そして、日本一のつり橋と言われる九重の吊り橋へ。その後、九州を体感するため,阿蘇方面へドライブ。箱庭的な四国と異なる雄大な景色が展開します。そして、山の上の方では霧氷がみられ、彼女にとっても私にとっても初体験でした。
フェリーで帰る前に、大分の’天空の湯’で温泉三昧。我が家の近くにもとてもいい温泉がありますが、この湯と高台からの豊予海峡の景色、そして猛烈な風はとても印象的でした。


旅行はツーリストであれば手軽に体験できます。しかし、地元の人々との交流、日常体験はなかなか一ツーリストではむつかしい。
翌日、弟の友人が刺身つくりの講習会をしてくれました。料理人でも,漁師でもない地元の人ですが、それは見事に魚をさばきます。多くの地元の人たちは刺身づくりはお手のもの。しかし、彼の腕は芸術的でした。翌日、別の友人が訪ねてきて炬燵でお茶を。冬の風物詩です。

さらに貴重な体験は、我々日本人でも今日難しい、杵での餅つき。近所の家で毎年恒例の餅つきですが、今年は機械での餅つきのほかに杵での昔ながらの餅つきを体験させて頂きました。素晴らしい家族です。我が村の生き字引のようなおばさんとその息子夫婦、さらに孫とひ孫が息を合わせて餅つきの段取りをします。小さなこのひ孫にとって、生涯の大切な思い出となることでしょう。餅はさすがに杵でついたものと機械で着いたもので、食感、伸びが違いとてもいい勉強でした。

次の体験は、瀬戸内海側の大江に住む長岡夫妻の、ミカン畑へ。伊予柑摘みの体験。鋏を二度入れるコツを習い、畑での味を楽しみました。
そして、その帰りには、釣り体験。釣りは何度か体験しているものの、やはり釣れるとやめられない。長岡さんの奥様からは、代表的な庶民の味、ちらしずしづくりを教えて頂き、一緒に作りました。


彼女は滞在中、私たちの日々の生活を楽しみたいと、畑仕事も彼女の目的の一つでした。玉ねぎのなかの草引き体験、しかし、すぐにギブアップ。腰が痛い!もちろん食事の準備、片付けも彼女の仕事の一つ。腰が痛い、頭が痛い、足が痛いと、眠れないというので、お灸を体験してもらいました。それが効いたかどうか、アジアの療法ではあるけど、中国系シンガポール人の彼女も初体験。マッサージ師の方は心から心配して下さり、何かとアドバイスを頂きました。


2019年元旦、深夜に村の神社にお参りし、早朝、山の上へ初日の出を見にいきました。それは美しい日の出でした。佐田岬半島の風の丘パークからの朝日、ここからは夕日も望めます。太平洋と瀬戸内海が同時に一望でき、我が半島の自慢の一つです。


お正月は地元の名のない神社、少し著名な神社仏閣などにお参りをして、2019年の健康と幸せを願いました。美しい浜辺は光で満ちて、真っ青な海と空、憩いの場として思い出して欲しい。




帰りの日も近づき、シンガポールへのお土産にと、ちりめんといりこだしを購入。袋詰めの手伝い。
2週間の滞在の最終日は、地元の友人の家にご招待頂き、七輪で焼き肉をごちそうに。私たちが子供の頃は当たり前の七輪での料理ですが、今日ではとても貴重な体験です。
そして、干し柿や魚の干物、かんてんなど、地元ならではのお土産と地元の人々の温かいおもてなしの思い出をいっぱい詰めて、大阪へ向かいました。



ベトナム・ホーチミンから

2018-10-04 18:33

6月末、長年の希望が叶ってベトナム、ホーチミンに行く機会を得た。大阪関西空港から、直行便で約5時間のフライト。ホーチミンの空港から一歩外にでると、かつて、私が仕事の現役の頃訪れた東南アジア、とりわけ、インドネシアやシンガポールに到着した時の体にまつわりつくべとっとした熱気、あの感触を懐かしく思い出した。なぜかその感触が、自分が東南アジアに溶け込んだように感じられ好きだった。
市内のホテルに向かうタクシーではまだ序の口、ホテルチェックイン後、市内を散策するために外に出た瞬間から、信じられないホーチミンの交通事情を目の当たりにした。いつの時代に迷い込んだのかと感じるほど、バイクのラッシュ、車のラッシュ。ホテル前の横断歩道を渡ると、道路中央分離帯と歩行専門のスペースがあるが、その横断歩道を渡るタイミングがつかめない。手動信号機があり、青になって渡ろうとするが、信号無視してバイクがバンバンと通っていく。見かねたホテルのドアマンが笑いながら、バイクを避けながら一緒にわたってくれる。彼曰く「ヴェトナムの優先順位は、バイク、自転車、車、そして最後が人だよ」
 


ベトナムに来たなら、まずは フォーを食べようと、地元で人気のフォーレストランを紹介して頂いた。ホテルからタクシーで10分ほど、と言われたが,どこへ連れて行かれるのかと思うほど、中心街を逸れ、地元住民の商店街に入っていく。およそ20分ほどで、本当に地元の人で賑わっている小さなレストランに着いた。フォーのメニューは写真入りで5,6品、4人でそれぞれ違うフォーメニューを選んだ。フォーは米粉で作られたヌードル。米粉のうどんのようなもの。ベトナムでは、ほとんどの粉を使う料理は小麦粉ではなく米粉を使うと聞いた。フォーが1品約70,000ドン(¥350)、タクシーが約100,000ドン(約¥500)だった。

 


初日
はどこから来るかわからないバイクと車に神経をすり減らされ、へとへとになって眠りについた。
2日目はオプショナルツアーで,ミトーメコン川クルーズに参加した。ミトーは果物生産でしられる新しい街だそうだ。ミトーまではホーチミンから約1時間半。朝のラッシュは昨夜以上にバイク通勤の凄まじさを見ることになった。そして、ホーチミンンを出て郊外の人々の暮らしを車窓からみる。顧客がくるのだろうかと思うような、バラック家の店らしきものが並び、それぞれにコーヒーを飲んでいたり、朝食をとっているのだろうか、数人が座り込んで、日長そうして時が過ぎているようにみえた。
メコン川はヒマラヤ山脈に端を発し、タイを抜け、インド洋にぬけるおよそ4000kmの大河とのこと。中州にあるクイ島は果樹栽培の人々が住んでいる。はちみつの試食、果物の試食、にしきへび体験など、まさに観光客対象の体験をし、手漕ぎ船で両岸を葦やヤシで覆われた小さな川をくだる。約15分の川下りだが、メコンデルタを感じられた。
2日目からは、バイクの恐怖に加え、通貨になじむのに神経がすり減った。ちょっとした買い物が、5万ドン、10万ドンと日本での我々の生活の感覚から並外れた桁に悩む。10万ドンといえど、日本円に換算すればせいぜい500円。ホーチミンにいると10万ドンが1万円にも思えてくるから、財布のひもがひきしまる。
 
 
 
  
 メコン川と中州にあるクイ島での観光。島の名産、はちみつや果物の試食、ジャングル下り


3日目はバイクや通貨にも少しづつ慣れて、観光とショッピングにでかけた。ホーチミンの目抜き通り、ドン・コイ通りやグエンフエ通りは最先端の都市ビルと取り残した、あるいはノスタルジーとして残された光景が同居していた。
ベトナム旅行人気の目玉ともいえるしゃれた小物やインテリアグッズ、カバンやサンダルなどがやすく買える場所、ベンタイン市場には2度も足を運んだ。フランス統治時代の瀟洒な建築、中央郵便局、統一会堂、サイゴン劇場、サイゴン教会、
そして、ベトナム戦争時の南ベトナム大統領官邸であったホーチミン市人民委員会庁舎。目抜き通りのホテルに滞在するとほぼ徒歩で回ることができる。
ランチは、ローカルフード、バインミーと呼ばれるサンドイッチを食べる。フランスパンに具材を挟んだもの。1個19,000ドン(約¥100)フランス統治時代の名残である。
 
 
  左:グエンフェ通りの建国の父と呼ばれるホー・チ・ミン氏像とホーチミン市人民委員会庁舎、
フランス統治時代の面影を残す中央郵便局

 
  目抜き通りのノスタルジー
 
  ベンタイン市場の雑貨


3泊5日の旅は、4日目の夜遅く航空機のチェックイン。ホテルのチェックアウトは正午まで。
朝食の後、ホテル近辺の散策に出て、偶然、庶民の市場通りにでた。
 
 
 
 平日の昼間、人々は何をする人ぞ?
 ランブータンやマンゴー、ドリアンなど、南国らしい果物や野菜など、ベトナム人の台所を覗く。

午前中、女子旅気分でベトナム式マッサージへ。1時間のコースで¥2,800(540,000ドン)。ベトナムドンがなくなったので日本円で支払う。ベトナムの生活物価から考えるとかなり高いが、ここは日本感覚になるのだろう、やらなきゃ損!感覚になるから不思議!
一度は美味しいベトナム料理を食べたい!とレストランを探していると、ベトナム人の日本語ガイドの方に偶然出会い、レストランを紹介して頂いた。その名もまさに、ベトナムハウス。ある意味で観光客向けの高級レストランといったところか、ベトナム色を上手く出した内装と料理。そしてサービス。やっと願っていた旨いベトナム料理とサービスに出会えた思い。もちろん、バインミーもフォーも美味しかったが、私には香草の匂いがつよすぎて少しあわなかった。
 
 
 
 代表的な生春巻き,揚げ春巻き、鴨と野菜のサラダ、バインセオと呼ばれるベトナム風お好み焼き、
デザートに、ハスの実とレンコン,杏仁豆腐など 


ベトナムにきて、ちょっと残念に感じた一つは、接客業に携わる人々のサービスである。彼らは決して冷たい訳ではなく、嫌がっている訳でもないのだが、我々(同行した私の仲間も同様)は物足りなさを感じた。出発の航空機のフライトアテンダントからして感じたことだったが、笑顔がない。もちろん全員ではなく全体として感じたこと。例外は観光客相手のショッピングのみだがプロとは程遠い。ホテルや、インフォメーションセンターでは、親切で笑顔もあるが、いまひとつ、我々が望んでいる情報に対応できない、あるいは人により誤った情報を提供しているように思う。
商業ビジネスにおいて、ある意味でまだ成長期なのかなと感じた。
ただ、街歩き中、私のイメージするベトナム人の柔らかな笑顔と親切に、何度かであったことを追記しておきたい。

空港への出発まで時間があったので、水上劇を観覧に行った。ここでもインフォメーションセンターで得た料金が、すでに上がっていて、残しておいたドンが足りなく、結果、日本人グループのガイドの方に両替をして頂いて観覧できた。
水上劇そのものは古典芸能で、言葉はわからないけど、ベトナム音楽とともに楽しめた。

 
 11世紀から続く水上劇。民話や伝説をベースとして、ベトナム伝統楽器と歌が楽しめた。


南国特有の激しいスコールはあったが、夜や建物の中にいて、雨期にも関わらず、この旅行中、スコールの中を歩くことがほとんどなくラッキーだった。出発間際、まさにベトナムらしい激しいスコールが空港まで見送ってくれた。瞬間的に街の中が冠水、これが東南アジアだ!

フランス統治時代、ベトナム戦争と時代に翻弄され、その後のさらに悲しい内戦を経、今日大きな躍進をとげた。
ベトナムの人口は約9300万、ホーチミンは現在郊外も含め約1000万。数十年前の日本と東京のようであるが、今回の旅は、現在のベトナムの湧き上がってくるようなエネルギーを感じさせてくれ、ベトナムの力強い未来を垣間見る思いだった。

追記:つい先日、友人の家に招待された、日本で研修中のベトナムの若い女性に春巻きをふるまって頂いた。彼女たちの家庭で一般的に作っている春巻きだそうだ。春巻きを作りながら、交わす彼女たちのおしゃべり、そして、たどたどしい日本語で話しかけてくれる彼女たちの笑顔、なんと明るく、屈託のないきれいな笑顔だろう!!
サービスは作られるものではなく、醸し出されるものだと彼女たちを見て思った。


佐田岬の春 ささやかな、そしてリッチなサロン

2018-05-08 16:53

今年の冬はとても厳しい寒さにみまわれた。それだけに春の兆しは心もつぼみのように膨らんでいった。そんな春の日に、ささやかな、そしてリッチな気分を楽しむサロンを開いた。

まずは、三寒四温に戸惑う3月半ば、カフェ・ふ~ちゃんで、フルートとキーボードの音色を楽しみながらティーサロン。
8畳と3畳の小さな部屋で、触れ合える距離でたっぷりと楽しめる豊かなメロディー。よく晴れた一日、海の青も木々の芽吹きの緑もともに体を揺らしてその音色を楽しむ。



春爛漫,’春のお茶会~花とウクレレをたのしみながら~’とタイトルをつけたサロンはやはりカフェ・ふ~ちゃんで。
隣の庵寺の桜が見事に咲き、めいっぱいの春を花とウクレレと花ちゃんの歌声が演じた一日。半島の人々になかなか馴染みのないウクレレの軽快な音楽と花ちゃんの力強い、そして感情を込めた歌声が小さな部屋の壁を破り、人々の心の殻をやぶり、春霞のように柔らかく、自然に溶け込んでいく。



4月、さくらは終わり、緑が流れ出す。まさに自然の舞台、コンサートホールに、瀬戸内海に面する大江の山々が音響効果を、入り組んだ深い緑色をたたえた海が舞台の背景を作り上げた。大江の里の意味をつけた、’江里花だん’で行われたフルートとキーボードの音楽会。この日のために佐田岬半島の自然が全身で協力してくれたような、素晴らしい快晴、柔らかな春風、背にぬくもりを感じる春の日差し。江里花だんのご主人が速攻でこしらえた簡易舞台。奥様の丹念な手入れの行き届いた自然味豊かなガーデン。昼下がりのひと時、何にも増して自然芸術が繰り広げられた。




佐田岬の自然は何も真っ青な空、海が象徴するものではない。風の通り道、そして、太平洋と瀬戸内海に挟まれたスリムな岬はその海の影響を受けて、霧が発生しやすい。佐田岬のほぼ中央、山の上にリゾートハウスが並ぶ一角があり、風と霧の名所のようでもある。ここに’自然の庭’と名付け、プライベートの庭を一般公開している一軒の家がある。
4月の深く霧が立ち込めた一日、ここでもフルートとキーボードの美しい音色が山々を覆う深い霧の中に溶け込んでいった。晴れた日の木々や自然の花々に囲まれた時も素晴らしいが、こんなに雨の日、深い霧が似合う場所は多くないと感じた。





かつて、19世紀頃のヨーロッパ、あるいは日本の大正ロマンのように、手の届く位置で、音楽と会話、親しい人々との交流を深めるサロン文化は、富豪の屋敷の一室ではなくても、自然の中のささやかな場所で、そして、マスコミにしられた著名人でないが、こんなにも豊かな演奏家が身近にていて素晴らしい感動を与えてくれることを、私のように小さな村や町に住む人たちに知ってほしい。多くの人に楽しんで欲しいと願う。



村の庵寺 その役割 

2018-02-20 20:40

村の、村たらしめるもののひとつ(私の勝手な理論ですが)が昔から受け継がれてきた宗教的なイヴェント。神道のイヴェントの代表は、収穫を祝う秋祭りや無病息災を願う儀式、そして6世紀に日本に伝えられた仏教が時代を経、地方の気候風土によって、各地の村に根付いた仏教イヴェント。子供の頃から意味もわからず、大人にまじって儀式に参加していた我が村のその一つのイヴェントが念仏はじめ。我が村では毎年1月16日に庵寺でおこなわれる。庵寺は寺の末庵でほとんどの村に存在し、この地方では、多分お庵がなまったものだろう、’おわん’と呼ばれて、村人に最も密着した存在だ。
わが村塩成の庵寺は、三机にある臨済宗妙心寺派長養寺の末庵で、臨海山宝手庵と号される。本尊は千手観音菩薩で、1717年創建と記録。が、私はお庵の中に面白い札を発見した。お札によれば’臨海山宝手庵紀元2616年再建’とある。現在が2018年ということは、単なる間違いで書かれたのか、もしくはお釈迦様誕生から2616年という意味なのか、ちょっと歴史のロマンを感じる。



     信仰深い村人、お地蔵様に前掛けをかけて。               千手観音様の隣には弘法大師様が。

わが村のお庵は江戸時代の藩政において、寺子屋として藩政教育の場であり、明治15年には三机第一分校となり、明治25年(1892年)、塩成小学校開校まで教育の場として重要な役割を果たしてきたとある。こんな小さな、今日では忘れられているかと思うような庵寺にこんな歴史があることに感動している。
私が子供の頃、庵主様がいて近所のご老人たちが、縁側でおしゃべりをしていた記憶がわずかに残っている。お庵は村人の社交の場でもあった。わが村のように、かつては庵主様がいたようだが、今日では殆どが不在で、村人たちが管理している。


        草履を編む


この村にはこんな大きな草履を履く巨人がいるぞ!    リーダーが鐘をたたいて念仏を先導


      数珠を回しながら、般若心経を。                      念仏を唱える


我が村の念仏初めは、念仏の前に、大きな藁草履を編んで、村の入口に立てかける。いつ頃始めたものかわからないが、この草履の意は、よそ者に、’この村にはこんな大きな草履を履く巨人がいるんだぞ! 悪さはできないぞ! ’という脅しだそうだ。我が村だけでなく、佐田岬半島の殆どの村々の入り口にみかけられる。今の我々は笑ってしまうかわいい防犯だが、当時は大真面目だったのだろう。
そのあとで、’村の念仏’を唱え、さらに、般若心経を唱えながら数珠の輪をまわす。数珠の輪は各村によって若干異なっているようだが、基本的に108の数珠がつながれているそうだ。
私が村の村たらしめるという根拠は、私が子供の頃まで、殆どの村人が庵寺に集まり、皆で粛々とこのイヴェントをしており、村人たちの絆となっていたと思うから。今日では、様々な理由があることだろうが、イヴェントの役回りの人以外、村人は6~7人ほどもいるかいないか。こんな小さな村にいて、近所の人の安否さえも、入院をするとか、救急車が来るとかして、噂にならなければ知らないということも多い。大きな草鞋を編める人も、念仏や般若心経をそらで唱えられる人も殆ど居なくなり、数年後には誰もいなくなり、イヴェントの形は変わらざるをえないかもしれない。村そのものの存続の危機に直面する日も遠くない今日、せめて今はかつての村の人々の想いを受け継いで欲しい。