ベトナム・ホーチミンから

2018-10-04 18:33

6月末、長年の希望が叶ってベトナム、ホーチミンに行く機会を得た。大阪関西空港から、直行便で約5時間のフライト。ホーチミンの空港から一歩外にでると、かつて、私が仕事の現役の頃訪れた東南アジア、とりわけ、インドネシアやシンガポールに到着した時の体にまつわりつくべとっとした熱気、あの感触を懐かしく思い出した。なぜかその感触が、自分が東南アジアに溶け込んだように感じられ好きだった。
市内のホテルに向かうタクシーではまだ序の口、ホテルチェックイン後、市内を散策するために外に出た瞬間から、信じられないホーチミンの交通事情を目の当たりにした。いつの時代に迷い込んだのかと感じるほど、バイクのラッシュ、車のラッシュ。ホテル前の横断歩道を渡ると、道路中央分離帯と歩行専門のスペースがあるが、その横断歩道を渡るタイミングがつかめない。手動信号機があり、青になって渡ろうとするが、信号無視してバイクがバンバンと通っていく。見かねたホテルのドアマンが笑いながら、バイクを避けながら一緒にわたってくれる。彼曰く「ヴェトナムの優先順位は、バイク、自転車、車、そして最後が人だよ」
 


ベトナムに来たなら、まずは フォーを食べようと、地元で人気のフォーレストランを紹介して頂いた。ホテルからタクシーで10分ほど、と言われたが,どこへ連れて行かれるのかと思うほど、中心街を逸れ、地元住民の商店街に入っていく。およそ20分ほどで、本当に地元の人で賑わっている小さなレストランに着いた。フォーのメニューは写真入りで5,6品、4人でそれぞれ違うフォーメニューを選んだ。フォーは米粉で作られたヌードル。米粉のうどんのようなもの。ベトナムでは、ほとんどの粉を使う料理は小麦粉ではなく米粉を使うと聞いた。フォーが1品約70,000ドン(¥350)、タクシーが約100,000ドン(約¥500)だった。

 


初日
はどこから来るかわからないバイクと車に神経をすり減らされ、へとへとになって眠りについた。
2日目はオプショナルツアーで,ミトーメコン川クルーズに参加した。ミトーは果物生産でしられる新しい街だそうだ。ミトーまではホーチミンから約1時間半。朝のラッシュは昨夜以上にバイク通勤の凄まじさを見ることになった。そして、ホーチミンンを出て郊外の人々の暮らしを車窓からみる。顧客がくるのだろうかと思うような、バラック家の店らしきものが並び、それぞれにコーヒーを飲んでいたり、朝食をとっているのだろうか、数人が座り込んで、日長そうして時が過ぎているようにみえた。
メコン川はヒマラヤ山脈に端を発し、タイを抜け、インド洋にぬけるおよそ4000kmの大河とのこと。中州にあるクイ島は果樹栽培の人々が住んでいる。はちみつの試食、果物の試食、にしきへび体験など、まさに観光客対象の体験をし、手漕ぎ船で両岸を葦やヤシで覆われた小さな川をくだる。約15分の川下りだが、メコンデルタを感じられた。
2日目からは、バイクの恐怖に加え、通貨になじむのに神経がすり減った。ちょっとした買い物が、5万ドン、10万ドンと日本での我々の生活の感覚から並外れた桁に悩む。10万ドンといえど、日本円に換算すればせいぜい500円。ホーチミンにいると10万ドンが1万円にも思えてくるから、財布のひもがひきしまる。
 
 
 
  
 メコン川と中州にあるクイ島での観光。島の名産、はちみつや果物の試食、ジャングル下り


3日目はバイクや通貨にも少しづつ慣れて、観光とショッピングにでかけた。ホーチミンの目抜き通り、ドン・コイ通りやグエンフエ通りは最先端の都市ビルと取り残した、あるいはノスタルジーとして残された光景が同居していた。
ベトナム旅行人気の目玉ともいえるしゃれた小物やインテリアグッズ、カバンやサンダルなどがやすく買える場所、ベンタイン市場には2度も足を運んだ。フランス統治時代の瀟洒な建築、中央郵便局、統一会堂、サイゴン劇場、サイゴン教会、
そして、ベトナム戦争時の南ベトナム大統領官邸であったホーチミン市人民委員会庁舎。目抜き通りのホテルに滞在するとほぼ徒歩で回ることができる。
ランチは、ローカルフード、バインミーと呼ばれるサンドイッチを食べる。フランスパンに具材を挟んだもの。1個19,000ドン(約¥100)フランス統治時代の名残である。
 
 
  左:グエンフェ通りの建国の父と呼ばれるホー・チ・ミン氏像とホーチミン市人民委員会庁舎、
フランス統治時代の面影を残す中央郵便局

 
  目抜き通りのノスタルジー
 
  ベンタイン市場の雑貨


3泊5日の旅は、4日目の夜遅く航空機のチェックイン。ホテルのチェックアウトは正午まで。
朝食の後、ホテル近辺の散策に出て、偶然、庶民の市場通りにでた。
 
 
 
 平日の昼間、人々は何をする人ぞ?
 ランブータンやマンゴー、ドリアンなど、南国らしい果物や野菜など、ベトナム人の台所を覗く。

午前中、女子旅気分でベトナム式マッサージへ。1時間のコースで¥2,800(540,000ドン)。ベトナムドンがなくなったので日本円で支払う。ベトナムの生活物価から考えるとかなり高いが、ここは日本感覚になるのだろう、やらなきゃ損!感覚になるから不思議!
一度は美味しいベトナム料理を食べたい!とレストランを探していると、ベトナム人の日本語ガイドの方に偶然出会い、レストランを紹介して頂いた。その名もまさに、ベトナムハウス。ある意味で観光客向けの高級レストランといったところか、ベトナム色を上手く出した内装と料理。そしてサービス。やっと願っていた旨いベトナム料理とサービスに出会えた思い。もちろん、バインミーもフォーも美味しかったが、私には香草の匂いがつよすぎて少しあわなかった。
 
 
 
 代表的な生春巻き,揚げ春巻き、鴨と野菜のサラダ、バインセオと呼ばれるベトナム風お好み焼き、
デザートに、ハスの実とレンコン,杏仁豆腐など 


ベトナムにきて、ちょっと残念に感じた一つは、接客業に携わる人々のサービスである。彼らは決して冷たい訳ではなく、嫌がっている訳でもないのだが、我々(同行した私の仲間も同様)は物足りなさを感じた。出発の航空機のフライトアテンダントからして感じたことだったが、笑顔がない。もちろん全員ではなく全体として感じたこと。例外は観光客相手のショッピングのみだがプロとは程遠い。ホテルや、インフォメーションセンターでは、親切で笑顔もあるが、いまひとつ、我々が望んでいる情報に対応できない、あるいは人により誤った情報を提供しているように思う。
商業ビジネスにおいて、ある意味でまだ成長期なのかなと感じた。
ただ、街歩き中、私のイメージするベトナム人の柔らかな笑顔と親切に、何度かであったことを追記しておきたい。

空港への出発まで時間があったので、水上劇を観覧に行った。ここでもインフォメーションセンターで得た料金が、すでに上がっていて、残しておいたドンが足りなく、結果、日本人グループのガイドの方に両替をして頂いて観覧できた。
水上劇そのものは古典芸能で、言葉はわからないけど、ベトナム音楽とともに楽しめた。

 
 11世紀から続く水上劇。民話や伝説をベースとして、ベトナム伝統楽器と歌が楽しめた。


南国特有の激しいスコールはあったが、夜や建物の中にいて、雨期にも関わらず、この旅行中、スコールの中を歩くことがほとんどなくラッキーだった。出発間際、まさにベトナムらしい激しいスコールが空港まで見送ってくれた。瞬間的に街の中が冠水、これが東南アジアだ!

フランス統治時代、ベトナム戦争と時代に翻弄され、その後のさらに悲しい内戦を経、今日大きな躍進をとげた。
ベトナムの人口は約9300万、ホーチミンは現在郊外も含め約1000万。数十年前の日本と東京のようであるが、今回の旅は、現在のベトナムの湧き上がってくるようなエネルギーを感じさせてくれ、ベトナムの力強い未来を垣間見る思いだった。

追記:つい先日、友人の家に招待された、日本で研修中のベトナムの若い女性に春巻きをふるまって頂いた。彼女たちの家庭で一般的に作っている春巻きだそうだ。春巻きを作りながら、交わす彼女たちのおしゃべり、そして、たどたどしい日本語で話しかけてくれる彼女たちの笑顔、なんと明るく、屈託のないきれいな笑顔だろう!!
サービスは作られるものではなく、醸し出されるものだと彼女たちを見て思った。


佐田岬の春 ささやかな、そしてリッチなサロン

2018-05-08 16:53

今年の冬はとても厳しい寒さにみまわれた。それだけに春の兆しは心もつぼみのように膨らんでいった。そんな春の日に、ささやかな、そしてリッチな気分を楽しむサロンを開いた。

まずは、三寒四温に戸惑う3月半ば、カフェ・ふ~ちゃんで、フルートとキーボードの音色を楽しみながらティーサロン。
8畳と3畳の小さな部屋で、触れ合える距離でたっぷりと楽しめる豊かなメロディー。よく晴れた一日、海の青も木々の芽吹きの緑もともに体を揺らしてその音色を楽しむ。



春爛漫,’春のお茶会~花とウクレレをたのしみながら~’とタイトルをつけたサロンはやはりカフェ・ふ~ちゃんで。
隣の庵寺の桜が見事に咲き、めいっぱいの春を花とウクレレと花ちゃんの歌声が演じた一日。半島の人々になかなか馴染みのないウクレレの軽快な音楽と花ちゃんの力強い、そして感情を込めた歌声が小さな部屋の壁を破り、人々の心の殻をやぶり、春霞のように柔らかく、自然に溶け込んでいく。



4月、さくらは終わり、緑が流れ出す。まさに自然の舞台、コンサートホールに、瀬戸内海に面する大江の山々が音響効果を、入り組んだ深い緑色をたたえた海が舞台の背景を作り上げた。大江の里の意味をつけた、’江里花だん’で行われたフルートとキーボードの音楽会。この日のために佐田岬半島の自然が全身で協力してくれたような、素晴らしい快晴、柔らかな春風、背にぬくもりを感じる春の日差し。江里花だんのご主人が速攻でこしらえた簡易舞台。奥様の丹念な手入れの行き届いた自然味豊かなガーデン。昼下がりのひと時、何にも増して自然芸術が繰り広げられた。




佐田岬の自然は何も真っ青な空、海が象徴するものではない。風の通り道、そして、太平洋と瀬戸内海に挟まれたスリムな岬はその海の影響を受けて、霧が発生しやすい。佐田岬のほぼ中央、山の上にリゾートハウスが並ぶ一角があり、風と霧の名所のようでもある。ここに’自然の庭’と名付け、プライベートの庭を一般公開している一軒の家がある。
4月の深く霧が立ち込めた一日、ここでもフルートとキーボードの美しい音色が山々を覆う深い霧の中に溶け込んでいった。晴れた日の木々や自然の花々に囲まれた時も素晴らしいが、こんなに雨の日、深い霧が似合う場所は多くないと感じた。





かつて、19世紀頃のヨーロッパ、あるいは日本の大正ロマンのように、手の届く位置で、音楽と会話、親しい人々との交流を深めるサロン文化は、富豪の屋敷の一室ではなくても、自然の中のささやかな場所で、そして、マスコミにしられた著名人でないが、こんなにも豊かな演奏家が身近にていて素晴らしい感動を与えてくれることを、私のように小さな村や町に住む人たちに知ってほしい。多くの人に楽しんで欲しいと願う。



村の庵寺 その役割 

2018-02-20 20:40

村の、村たらしめるもののひとつ(私の勝手な理論ですが)が昔から受け継がれてきた宗教的なイヴェント。神道のイヴェントの代表は、収穫を祝う秋祭りや無病息災を願う儀式、そして6世紀に日本に伝えられた仏教が時代を経、地方の気候風土によって、各地の村に根付いた仏教イヴェント。子供の頃から意味もわからず、大人にまじって儀式に参加していた我が村のその一つのイヴェントが念仏はじめ。我が村では毎年1月16日に庵寺でおこなわれる。庵寺は寺の末庵でほとんどの村に存在し、この地方では、多分お庵がなまったものだろう、’おわん’と呼ばれて、村人に最も密着した存在だ。
わが村塩成の庵寺は、三机にある臨済宗妙心寺派長養寺の末庵で、臨海山宝手庵と号される。本尊は千手観音菩薩で、1717年創建と記録。が、私はお庵の中に面白い札を発見した。お札によれば’臨海山宝手庵紀元2616年再建’とある。現在が2018年ということは、単なる間違いで書かれたのか、もしくはお釈迦様誕生から2616年という意味なのか、ちょっと歴史のロマンを感じる。



     信仰深い村人、お地蔵様に前掛けをかけて。               千手観音様の隣には弘法大師様が。

わが村のお庵は江戸時代の藩政において、寺子屋として藩政教育の場であり、明治15年には三机第一分校となり、明治25年(1892年)、塩成小学校開校まで教育の場として重要な役割を果たしてきたとある。こんな小さな、今日では忘れられているかと思うような庵寺にこんな歴史があることに感動している。
私が子供の頃、庵主様がいて近所のご老人たちが、縁側でおしゃべりをしていた記憶がわずかに残っている。お庵は村人の社交の場でもあった。わが村のように、かつては庵主様がいたようだが、今日では殆どが不在で、村人たちが管理している。


        草履を編む


この村にはこんな大きな草履を履く巨人がいるぞ!    リーダーが鐘をたたいて念仏を先導


      数珠を回しながら、般若心経を。                      念仏を唱える


我が村の念仏初めは、念仏の前に、大きな藁草履を編んで、村の入口に立てかける。いつ頃始めたものかわからないが、この草履の意は、よそ者に、’この村にはこんな大きな草履を履く巨人がいるんだぞ! 悪さはできないぞ! ’という脅しだそうだ。我が村だけでなく、佐田岬半島の殆どの村々の入り口にみかけられる。今の我々は笑ってしまうかわいい防犯だが、当時は大真面目だったのだろう。
そのあとで、’村の念仏’を唱え、さらに、般若心経を唱えながら数珠の輪をまわす。数珠の輪は各村によって若干異なっているようだが、基本的に108の数珠がつながれているそうだ。
私が村の村たらしめるという根拠は、私が子供の頃まで、殆どの村人が庵寺に集まり、皆で粛々とこのイヴェントをしており、村人たちの絆となっていたと思うから。今日では、様々な理由があることだろうが、イヴェントの役回りの人以外、村人は6~7人ほどもいるかいないか。こんな小さな村にいて、近所の人の安否さえも、入院をするとか、救急車が来るとかして、噂にならなければ知らないということも多い。大きな草鞋を編める人も、念仏や般若心経をそらで唱えられる人も殆ど居なくなり、数年後には誰もいなくなり、イヴェントの形は変わらざるをえないかもしれない。村そのものの存続の危機に直面する日も遠くない今日、せめて今はかつての村の人々の想いを受け継いで欲しい。

みかんの季節です。

2017-12-10 22:26

10月下旬から12月後半にかけて、温州みかんの収穫期。みかん農家の皆様の一年でもっともハードな季節です。日本のみかんの生産地は、日本のみかん発祥の地和歌山を始め、愛媛、静岡、熊本、そして長崎などとなっていますが、愛媛みかんの定評はもちろん、その中でも我が西宇和郡のみかんは最高品質であると自負しています。太陽と潮風、段々畑の石垣の照り返しがこの地方の美味しいみかんを育てると言われています。温暖な気候に、潮風、南に面した段々畑の日照時間と日照量が、糖度と酸味のバランスのよい美味しいみかんを作るのだそうです。
’暖かいこたつにみかん’はなんとなくほのぼのとした日本の冬の風物詩。私は3年前からみかん採りの手伝いをして、そんな風物詩を作り出しているみかん農家のご苦労と手間暇を知ることができました。みかん農家に限らず、りんごの農家も、柿の農家も、冬の鍋に欠かせない白菜やネギ、きのこの農家も大変なご苦労をしていることが偲ばれます。
ここでは私が体験したみかん農家の暮らしを是非皆様に知って頂きたいと思います。


一度ハサミを入れてきったみかんを他のみかんを傷つけないように2度切りする。

採れたみかんの運搬は何よりの重労働! 山でのランチ、美しい風景とおいしい空気が何より!

みかん畑から宇和海を望む。絶景! イノシシの被害、台風被害、そして空からは鳥の被害!


みかん農家の一年:
11月から温州みかんの最盛期、1月から5月頃までポンカンやデコポン、清美など晩柑と呼ばれる柑橘類の収穫。1月消毒、同時にみかんの木の伐採作業を随時、6月摘果、木の枝の剪定、草刈りは年に数回、6月から9月まで1ヶ月に1回の割合で消毒、害虫がでれば更に消毒回数が増える。一年中仕事が絶えることはありません。

収穫期の、あるみかん農家の主婦の一日を伺いました。
起床5:00,弁当作りと義父の朝食、昼食準備。6:30みかん山へ。みかん採り開始7:00~7:30。10:00 みかん採りのアルバイターへのお茶準備、午後4:00、みかん採り終了、義父の夕食準備をしてすぐに倉庫へ。みかんの選別、箱詰め。午後9:00、夕食準備、食事、風呂、洗濯。午前1:00~2:00、入出金管理、同封の請求書作成、翌日の段取り。2:00就寝。収穫期の2ヶ月余り、平均睡眠時間は約3時間から4時間とのこと。


山での仕事を終えてから倉庫へ。みかんの選別。この作業は長年の経験で培った目が必要。誰でもできる作業ではない

長年身をもってみかん農家の経営にたずさわってきたここのご主人は、息子を後継者にしたくないといい、そして、次に生まれたときは農家にはならないという。みかん農家というハードな仕事は自分の代だけでいいと。みかん農家の高齢化、後継者不足によって年々みかん農家は減少し、みかんの畑地も荒れてきています。そして、イノシシやハクビシンの被害が、ますす増え、さらには台風による被害も大きかったといいます。
それでも畑に生きる人々は、体は酷使しながらも、太陽の下で働き、甘いみかんのできた喜び、子供や孫との時間を楽しみ、仕事の後の家での寛ぎに満たされているのでしょう、彼らの顔はとても明るくいいシワを刻んでいるように見えます。子どもたちは、そんな父母の背中を見て育ち、そして、誇りに思うことでしょう。
私は、こうした地方にあって、農家が農業で生計を立てられない、あるいは、農業を続けられない国は、決して豊かな国ではなく、国策で農業を守れない国に将来性はないと思います。なぜなら、農業は人間の命の根源であるから。

塩成 村の秋祭り

2017-10-16 16:12

塩成の村の秋祭りは、毎年10月の第二土曜日、日曜日に行われている。土曜日が宵祭り、日曜日が本祭である。宵祭の朝、村の一宮神社で、五鹿、唐獅子の奉納踊が行われ、その後一宮神社から出発し、五鹿、唐獅子それぞれが一軒一軒家々を訪ね、家の前、中庭、あるいは近くの広場を利用して踊ってご祝儀を受ける。まさに、山田洋次監督の映画、"ふーてんの寅さん"の世界を彷彿させる何とも言えないほのぼのとした日本の伝統的村祭りの光景だ。
私が子供の頃は、五鹿の踊りは中学生が、唐獅子の太鼓は小学生の子供、踊りは大人という役割になっていた。村の過疎化で子供や若者がほとんど居なくなった今日、かろうじて残った村の子供、若者、そして村を出て町や都会で学生や社会人となった若者たちがお祭りに帰省して引き継いでくれている。定年をすぎた男たちも、若者たちの指導だけでは許されず、今も現役として踊り手の役割を担う。




うさぎは五鹿の先導役


雌鹿を追いかける雄鹿たち。雌鹿が家の中に駆け込み、厄払いをする。

お面をとった若者たちの素顔が清々しい


ある人の説によると、五鹿は東北4県と愛媛県のみで見られるという。江戸時代の東北伊達藩から発祥したものと思われる。
南予は伊達政宗の嫡男が移封されたところ。南予各地で見られる五鹿の踊りは、おそらく時を経てそれぞれの村の気性にあわせ少しずつ変化したものだろう。衣装もまた少しづつ異なっている。
優雅に踊る五鹿もあればリズミカルに踊る五鹿もある。私は我が村の躍動的な五鹿踊りが好きだ。
本祭の午後、海岸通で練りが行われる。祭り最高潮だ。人口200人程の村が、この日は300人以上になり、祭りを盛り上げる。


本祭で’チョーヤサー’の掛け声とともに一軒一軒駆け込み厄払いをする。老若坂道を必死!

本祭の海岸通りでの練り。担ぎ手不足でお神輿も車付きだけど、精一杯祭りを盛り上げる。

四つ太鼓の子供たち。そして唐獅子の太鼓踊りの小学生。この子達に良い思い出と故郷への想いを託す。


日頃、人がいるのだろうかと思うほど静まり返った村に、年に一度、若さのエネルギーが躍動する。’今時の子、今時の若者’とよく聞くけれど、世代世代に連綿と続く言い草。今時の若者たちは、自分たちなりに、やるべきことを考え、責任を感じ、精一杯生きている!と感じる一日。かつて我々大人もそういう時代があった。
過疎化により、いつなくなってしまうかわからない村の秋祭りに村人は心を痛めつつ、今年も祭りができたことに感謝している。