御神楽 神の岬ー神崎大衆信仰

2019-05-18 19:47

ゴールデンウィークの真っただ中、約30世帯人口60人ほどの村、神崎の六社神社で地元の御神楽保存会の皆様が演じる御神楽が奉納された。まるで深い森の中にあるような神社へのアプローチ。午後1時に太鼓の音で始まった御神楽。私が到着したとき、ギャラリーは一緒に行った友人の家族とほかに一組のご夫婦、カメラで取材をしていたお二人だけで、なんともったいないことかと悲しい思いを抱いた。御神楽は鉦と太鼓のリズムで、一幕一幕、踊りが変わっていく。2時過ぎ頃になって、村の人々が一人、二人と徐々に増えていく。御神楽も徐々にハイライトへと高まっていく。村の人々はハイライトになっていく過程を知っていて、それに合わせて集まってくるようだ。もともとは5月3日ではなく、神様のお祭りの日に奉納されていたそうだが、村の人口が減少し、人が集まらなくなったため、村の人々が里帰りするゴールデンウイークに催行するようになったそうだ。





ハイライトに向かって、村人たちが徐々に集まってくる。そして御神楽に参加する。
集まった村人の中の一人の女性が、保存会の方の母だと言い、その方の家は親子三代にわたり、保存会で伝統を引き継いでいると教えてくださった。彼女が知っている限り、神崎の御神楽は90年以上前には始まっていたと言う。現在保存会のメンバーは8名位で、後継者がいないことを心配していらっしゃった。彼女の娘さんもギャラリーとしてこられていて、どうすればこの伝統を続けられるのだろうと思いを伝えてくださった。
メンバーの一番若手が50台後半、でんぐり返ったり、子供を抱いて舞うことがすでにきつくなっているという。
ギャラリーの一人が冗談で、お面をつけた翁や媼を見て、もうすでにお面なしでいけるのに、と笑っていた。







ハイライトのおろち退治。最初から最後まで奥の部屋でじっと見守る神主。


ハイライトは、ヤマトタケルの尊の大蛇退治。大蛇の尾から剣をとりだす。本来、午後1時から、4時過ぎまで4時間近い演舞で、演目は40以上あるのではとおっしゃっていた。現在は中を端折って3時間足らずになっていると。
こんな素晴らしい民族芸能が、ひっそりと続けられ、だれも手をさしのべることなく消えていこうとしている。佐田岬に生まれ育った私もその存在すら知らなかった。
後で聞いたことだが、神崎だけでなく、二名津村、豊之浦の村でも奉納されているという。どれほどの人がこうした伝統民芸を知っているのか、さらにどれほどの人が関心をもっているのか、もう少し知りたくなった。


春 花まつり(お釈迦様の誕生日)

2019-04-10 20:58

村の住人としての意識って何だろう?やめていいイベントではないのかな?ふっとよぎる疑問。村の昔からの宗教
イベントに参加する住人がほとんどいない。高齢化、過疎化、仕事の都合、様々な理由があるが、毎年その役に付いた人以外に参加者、参拝者がいないというのはどういうことだろう?

毎年、お釈迦様の誕生日は各地で’花祭り’と呼ばれ甘茶をふるまうイベントが行われる。我が塩成の村の庵寺でも檀家総代が仕切り、花祭りを行っている。余談だが、前回も紹介した塩成の庵寺の不思議,臨海山寶手庵に、‵紀元二千六百十六年再建’という掛札を見つけた。お釈迦様の誕生は定かではないが、およそ2400年前頃との説がある。それと関連しているのかどうか、不思議に思っている。
私が子供の頃は、甘茶がうれしくて、ほとんどの村人が来ていたような記憶がある。近年、私がUターンで帰郷してからは、檀徒総会の役員3名のほか、3,4人が参加すればいいほうだという。昨日の、一之宮神社の春祭りはまさに神社総代の役員3名のほか、参拝者はいなかったようだ。
その疑問はひとまずおいて、2019年今年の我が村の花祭りを紹介したい。

2日前に、檀徒総代のひとりが庵寺の掃除、草刈りをして、甘茶の準備をした。当日、朝7時には庵寺を開け、お釈迦様の甘茶用の器とお釈迦様をだして、そのあづまやの屋根や器の周りに花をかざった。甘茶は役員の家でわかして準備して持ってこられた。午前8時、誰も来ない、9時、近所の住人で毎年必ず来て下さるご夫婦が来られた。9時半一人、、しばらくして、一人、さらに近所のおばさんが一人、そして今日仕事が休みだというおひとりが来てくださった。片づけ始めた最後に隣村からお一人が飛び入り参加、役員、私含めて合計10名!今年はよく集まった!! という現実。
この日を待ってたように庵寺に植えられたソメイヨシノ桜が満開。うららかな、暖かい一日、庵寺の縁側で花見を楽しめた。



桜の花は、咲き始めは花弁の内側が白く、散るころにはうっすらとピンクになるという。よく見るとなるほどと、新しい発見に嬉しくなった。散る間際は美しく装うのだと。庵寺の敷地にソメイヨシノ桜が3本植えられているが老木となり、危険が生じて、今年の花を最後に切られるらしいという。


私が子供の頃、庵寺に近所のおばあちゃんたちが何気なく集まって、おしゃべりをしていた光景を覚えている。今日、村の多くの高齢のおじいさん、おばあさんは、一日話す相手もなく、孤独をかこっている。かつてのように,良きも悪しきもうわさ話などをしながら、何気なく集まってくるような光景は見られない。
過疎化の止まらない村の生活だが、何の支障もない。当たり前の日々が当たり前のように今日、明日と続く。何が幸せなのか、より楽しい生活があるのか、など考えることもない。
ひとまず置いた疑問だが、桜の散り際の潔さ、粋を感じながら、’ここで生きる’こと!、まとわり続くだろう疑問にまた引き戻される。

大工の仕事・小さな村の大工の棟梁

2019-02-21 17:03

2018年9月下旬、わが村に新しい家を建てるための地鎮祭が執り行われた。かつては家を建てる際にはどこでも執り行われたとても大切な行事のひとつだったと思うが、今日、このような儀式を見る機会はなかなかないのではないだろうか。
神主さんを招聘し、建築の土地を清めて頂き、その家が安泰で幸せな暮らしができることを願う。
施主と大工の棟梁が立ち会い無事に家が建てられることを願う。地鎮祭の段取りはすべて大工の棟梁が取り仕切る。


地鎮祭

地鎮祭が終わるとすぐに建築にとりかかる。今では2x4方式で、工務店は企業化されている趣があるが、こんな小さな村では、たった一人の大工の棟梁が引き受けている。もちろん、大工のネットワークがあり、大きな材木を運ぶ弟子や協力者、左官の職人、水道、電気工事の専門職など、すべてを棟梁がさい配する。
棟上げ式もまた、小さな村ならではの。なんと、コンテナに急ぞろえのお供え物。そして、棟梁の仲間、村の若者が手伝いにくる。

棟上げの祭事 そして後日家の落成


2019年1月、近くの村の新築の依頼を受けて建築が始まった。1月中旬に地鎮祭を行い、約3週間後には棟上げを行った。その間に、倉庫で梁や木材の仕上げをする。棟上げには、仲間の協力が欠かせない。息子の友人も駆けつけてくれた。
若者が身軽に梁の上で仕事をする姿に、何か明るい未来を感じるのは私だけだろうか?不安定な若者たちだが、きっと今日の大人たちの背中を思い出し大丈夫だろうと。棟梁の妻の仕事も欠かせない。棟梁の苦手な経理や庶務、そして、協力してくださった人々への心遣い。そうしたまさに縁の下の力持ちがあっていい家が建つのだろう。

棟上げはみんなで力を合わせて。棟梁の妻は打ち上げの接待準備

我が村の、今日では1軒となった工務店、店主兼大工の棟梁は様々な地元の人々の依頼に対応せねばならず、ひっきりなしの仕事に追われている。新築の仕事だけでなく、改装、修理ほか、こまごまとしたリクエストが寄せられる。1昨年より、強力な助っ人として、息子が手伝いをはじめた。棟梁としては、赤子のような大工の見習いに四苦八苦しているだろうが、どこかでにんまり喜んでいるようだ。還暦を迎えた棟梁にとって、若い力ほどありがたいものはない。彼の年齢では、材木一つ担ぐにもなかなかきつい仕事となっている。彼の祖父は船大工だった。その祖父の背中から大きな影響を受けて、今日の棟梁としての自分があるように、自分の息子もまた、棟梁の背中を見て、育つことを願っているかもしれない。

彼の仕事はとても丁寧な事で定評がある。素人の私でさえも、彼の仕事の丁寧さがわかる気がする。さらに、家を建てるということだけでなく、そこに住む人への思いやりが、ほんのささやかな一腕を加えていることで滲み出ているような気がする。

3年前、80歳になった老夫婦が家を新築した。その際には、家財道具の一時引っ越しを手伝い、さらに家が完成してからは、車を持たない老夫婦の為に、新しい洗濯機や冷蔵庫など家電道具の購入から搬送、取り付けまでを細やかに手伝っている。村の大工だからこその何とも言えない心配りであり、彼の人柄である。
すべての作品には、必ず作者の人柄と思いがそこに見られる。

家を建てることは大工の仕事だが、最終的な仕上げは依頼主がしていく。棟梁は建てた家で、明るく暖かい家庭が育まれることを願っているだろう。


シンガポール人 佐田岬の休日

2019-01-19 08:56

クリスマスの日、私の長年の友人、ジェシーが佐田岬にやってきました。彼女はシンガポール人。
最近ではほぼ毎年あるいは2年に一度はここ、佐田岬の我が家にやってきます。季節は夏であったり、秋であったり、桜の季節てあったり、そして今回は冬にやってきました。一年中常夏のシンガポール人にとって、寒さになれるまでは何かと大変でした。頭が痛い、腰が痛い、おなかがおかしい、足がとても痛む等々。彼女の日本での滞在はほぼ2週間から3週間。そのほとんどをここ佐田岬で過ごします。そして、ツーリストではありえない貴重な体験をするのです。
彼女の好奇心もさることながら、私は、地元の人たちの対応性、臆することのない受け入れにいつも感謝し、そして感心します。英語が話せるわけでなく、外国人に慣れているわけでなく、それでも自分たちの言葉で、時に片言英語を楽しみながら、この異邦人を受け入れるのです。
彼女の滞在期間の体験を紹介しましょう。
ほぼ毎年のように来ている彼女には地元にたくさんの知人、友人ができています。
そして我が兄弟、姉妹も常に協力してくれ、ときには家族以上のおもてなしをしてくれています。
大阪に到着した彼女は私の弟に拾われ、車で帰ってきました。そして、彼の協力で、九州への初トリップ。
佐田岬の先端から、九州佐賀関まではフェリーで70分、手軽に日帰りもできる位置です。まずは、別府の地獄めぐり。
温泉ではあるけど、ゆったりつかるところではない別府の7つの地獄のうち、海地獄と血の池地獄をめぐりました。
そして、日本一のつり橋と言われる九重の吊り橋へ。その後、九州を体感するため,阿蘇方面へドライブ。箱庭的な四国と異なる雄大な景色が展開します。そして、山の上の方では霧氷がみられ、彼女にとっても私にとっても初体験でした。
フェリーで帰る前に、大分の’天空の湯’で温泉三昧。我が家の近くにもとてもいい温泉がありますが、この湯と高台からの豊予海峡の景色、そして猛烈な風はとても印象的でした。


旅行はツーリストであれば手軽に体験できます。しかし、地元の人々との交流、日常体験はなかなか一ツーリストではむつかしい。
翌日、弟の友人が刺身つくりの講習会をしてくれました。料理人でも,漁師でもない地元の人ですが、それは見事に魚をさばきます。多くの地元の人たちは刺身づくりはお手のもの。しかし、彼の腕は芸術的でした。翌日、別の友人が訪ねてきて炬燵でお茶を。冬の風物詩です。

さらに貴重な体験は、我々日本人でも今日難しい、杵での餅つき。近所の家で毎年恒例の餅つきですが、今年は機械での餅つきのほかに杵での昔ながらの餅つきを体験させて頂きました。素晴らしい家族です。我が村の生き字引のようなおばさんとその息子夫婦、さらに孫とひ孫が息を合わせて餅つきの段取りをします。小さなこのひ孫にとって、生涯の大切な思い出となることでしょう。餅はさすがに杵でついたものと機械で着いたもので、食感、伸びが違いとてもいい勉強でした。

次の体験は、瀬戸内海側の大江に住む長岡夫妻の、ミカン畑へ。伊予柑摘みの体験。鋏を二度入れるコツを習い、畑での味を楽しみました。
そして、その帰りには、釣り体験。釣りは何度か体験しているものの、やはり釣れるとやめられない。長岡さんの奥様からは、代表的な庶民の味、ちらしずしづくりを教えて頂き、一緒に作りました。


彼女は滞在中、私たちの日々の生活を楽しみたいと、畑仕事も彼女の目的の一つでした。玉ねぎのなかの草引き体験、しかし、すぐにギブアップ。腰が痛い!もちろん食事の準備、片付けも彼女の仕事の一つ。腰が痛い、頭が痛い、足が痛いと、眠れないというので、お灸を体験してもらいました。それが効いたかどうか、アジアの療法ではあるけど、中国系シンガポール人の彼女も初体験。マッサージ師の方は心から心配して下さり、何かとアドバイスを頂きました。


2019年元旦、深夜に村の神社にお参りし、早朝、山の上へ初日の出を見にいきました。それは美しい日の出でした。佐田岬半島の風の丘パークからの朝日、ここからは夕日も望めます。太平洋と瀬戸内海が同時に一望でき、我が半島の自慢の一つです。


お正月は地元の名のない神社、少し著名な神社仏閣などにお参りをして、2019年の健康と幸せを願いました。美しい浜辺は光で満ちて、真っ青な海と空、憩いの場として思い出して欲しい。




帰りの日も近づき、シンガポールへのお土産にと、ちりめんといりこだしを購入。袋詰めの手伝い。
2週間の滞在の最終日は、地元の友人の家にご招待頂き、七輪で焼き肉をごちそうに。私たちが子供の頃は当たり前の七輪での料理ですが、今日ではとても貴重な体験です。
そして、干し柿や魚の干物、かんてんなど、地元ならではのお土産と地元の人々の温かいおもてなしの思い出をいっぱい詰めて、大阪へ向かいました。



ベトナム・ホーチミンから

2018-10-04 18:33

6月末、長年の希望が叶ってベトナム、ホーチミンに行く機会を得た。大阪関西空港から、直行便で約5時間のフライト。ホーチミンの空港から一歩外にでると、かつて、私が仕事の現役の頃訪れた東南アジア、とりわけ、インドネシアやシンガポールに到着した時の体にまつわりつくべとっとした熱気、あの感触を懐かしく思い出した。なぜかその感触が、自分が東南アジアに溶け込んだように感じられ好きだった。
市内のホテルに向かうタクシーではまだ序の口、ホテルチェックイン後、市内を散策するために外に出た瞬間から、信じられないホーチミンの交通事情を目の当たりにした。いつの時代に迷い込んだのかと感じるほど、バイクのラッシュ、車のラッシュ。ホテル前の横断歩道を渡ると、道路中央分離帯と歩行専門のスペースがあるが、その横断歩道を渡るタイミングがつかめない。手動信号機があり、青になって渡ろうとするが、信号無視してバイクがバンバンと通っていく。見かねたホテルのドアマンが笑いながら、バイクを避けながら一緒にわたってくれる。彼曰く「ヴェトナムの優先順位は、バイク、自転車、車、そして最後が人だよ」
 


ベトナムに来たなら、まずは フォーを食べようと、地元で人気のフォーレストランを紹介して頂いた。ホテルからタクシーで10分ほど、と言われたが,どこへ連れて行かれるのかと思うほど、中心街を逸れ、地元住民の商店街に入っていく。およそ20分ほどで、本当に地元の人で賑わっている小さなレストランに着いた。フォーのメニューは写真入りで5,6品、4人でそれぞれ違うフォーメニューを選んだ。フォーは米粉で作られたヌードル。米粉のうどんのようなもの。ベトナムでは、ほとんどの粉を使う料理は小麦粉ではなく米粉を使うと聞いた。フォーが1品約70,000ドン(¥350)、タクシーが約100,000ドン(約¥500)だった。

 


初日
はどこから来るかわからないバイクと車に神経をすり減らされ、へとへとになって眠りについた。
2日目はオプショナルツアーで,ミトーメコン川クルーズに参加した。ミトーは果物生産でしられる新しい街だそうだ。ミトーまではホーチミンから約1時間半。朝のラッシュは昨夜以上にバイク通勤の凄まじさを見ることになった。そして、ホーチミンンを出て郊外の人々の暮らしを車窓からみる。顧客がくるのだろうかと思うような、バラック家の店らしきものが並び、それぞれにコーヒーを飲んでいたり、朝食をとっているのだろうか、数人が座り込んで、日長そうして時が過ぎているようにみえた。
メコン川はヒマラヤ山脈に端を発し、タイを抜け、インド洋にぬけるおよそ4000kmの大河とのこと。中州にあるクイ島は果樹栽培の人々が住んでいる。はちみつの試食、果物の試食、にしきへび体験など、まさに観光客対象の体験をし、手漕ぎ船で両岸を葦やヤシで覆われた小さな川をくだる。約15分の川下りだが、メコンデルタを感じられた。
2日目からは、バイクの恐怖に加え、通貨になじむのに神経がすり減った。ちょっとした買い物が、5万ドン、10万ドンと日本での我々の生活の感覚から並外れた桁に悩む。10万ドンといえど、日本円に換算すればせいぜい500円。ホーチミンにいると10万ドンが1万円にも思えてくるから、財布のひもがひきしまる。
 
 
 
  
 メコン川と中州にあるクイ島での観光。島の名産、はちみつや果物の試食、ジャングル下り


3日目はバイクや通貨にも少しづつ慣れて、観光とショッピングにでかけた。ホーチミンの目抜き通り、ドン・コイ通りやグエンフエ通りは最先端の都市ビルと取り残した、あるいはノスタルジーとして残された光景が同居していた。
ベトナム旅行人気の目玉ともいえるしゃれた小物やインテリアグッズ、カバンやサンダルなどがやすく買える場所、ベンタイン市場には2度も足を運んだ。フランス統治時代の瀟洒な建築、中央郵便局、統一会堂、サイゴン劇場、サイゴン教会、
そして、ベトナム戦争時の南ベトナム大統領官邸であったホーチミン市人民委員会庁舎。目抜き通りのホテルに滞在するとほぼ徒歩で回ることができる。
ランチは、ローカルフード、バインミーと呼ばれるサンドイッチを食べる。フランスパンに具材を挟んだもの。1個19,000ドン(約¥100)フランス統治時代の名残である。
 
 
  左:グエンフェ通りの建国の父と呼ばれるホー・チ・ミン氏像とホーチミン市人民委員会庁舎、
フランス統治時代の面影を残す中央郵便局

 
  目抜き通りのノスタルジー
 
  ベンタイン市場の雑貨


3泊5日の旅は、4日目の夜遅く航空機のチェックイン。ホテルのチェックアウトは正午まで。
朝食の後、ホテル近辺の散策に出て、偶然、庶民の市場通りにでた。
 
 
 
 平日の昼間、人々は何をする人ぞ?
 ランブータンやマンゴー、ドリアンなど、南国らしい果物や野菜など、ベトナム人の台所を覗く。

午前中、女子旅気分でベトナム式マッサージへ。1時間のコースで¥2,800(540,000ドン)。ベトナムドンがなくなったので日本円で支払う。ベトナムの生活物価から考えるとかなり高いが、ここは日本感覚になるのだろう、やらなきゃ損!感覚になるから不思議!
一度は美味しいベトナム料理を食べたい!とレストランを探していると、ベトナム人の日本語ガイドの方に偶然出会い、レストランを紹介して頂いた。その名もまさに、ベトナムハウス。ある意味で観光客向けの高級レストランといったところか、ベトナム色を上手く出した内装と料理。そしてサービス。やっと願っていた旨いベトナム料理とサービスに出会えた思い。もちろん、バインミーもフォーも美味しかったが、私には香草の匂いがつよすぎて少しあわなかった。
 
 
 
 代表的な生春巻き,揚げ春巻き、鴨と野菜のサラダ、バインセオと呼ばれるベトナム風お好み焼き、
デザートに、ハスの実とレンコン,杏仁豆腐など 


ベトナムにきて、ちょっと残念に感じた一つは、接客業に携わる人々のサービスである。彼らは決して冷たい訳ではなく、嫌がっている訳でもないのだが、我々(同行した私の仲間も同様)は物足りなさを感じた。出発の航空機のフライトアテンダントからして感じたことだったが、笑顔がない。もちろん全員ではなく全体として感じたこと。例外は観光客相手のショッピングのみだがプロとは程遠い。ホテルや、インフォメーションセンターでは、親切で笑顔もあるが、いまひとつ、我々が望んでいる情報に対応できない、あるいは人により誤った情報を提供しているように思う。
商業ビジネスにおいて、ある意味でまだ成長期なのかなと感じた。
ただ、街歩き中、私のイメージするベトナム人の柔らかな笑顔と親切に、何度かであったことを追記しておきたい。

空港への出発まで時間があったので、水上劇を観覧に行った。ここでもインフォメーションセンターで得た料金が、すでに上がっていて、残しておいたドンが足りなく、結果、日本人グループのガイドの方に両替をして頂いて観覧できた。
水上劇そのものは古典芸能で、言葉はわからないけど、ベトナム音楽とともに楽しめた。

 
 11世紀から続く水上劇。民話や伝説をベースとして、ベトナム伝統楽器と歌が楽しめた。


南国特有の激しいスコールはあったが、夜や建物の中にいて、雨期にも関わらず、この旅行中、スコールの中を歩くことがほとんどなくラッキーだった。出発間際、まさにベトナムらしい激しいスコールが空港まで見送ってくれた。瞬間的に街の中が冠水、これが東南アジアだ!

フランス統治時代、ベトナム戦争と時代に翻弄され、その後のさらに悲しい内戦を経、今日大きな躍進をとげた。
ベトナムの人口は約9300万、ホーチミンは現在郊外も含め約1000万。数十年前の日本と東京のようであるが、今回の旅は、現在のベトナムの湧き上がってくるようなエネルギーを感じさせてくれ、ベトナムの力強い未来を垣間見る思いだった。

追記:つい先日、友人の家に招待された、日本で研修中のベトナムの若い女性に春巻きをふるまって頂いた。彼女たちの家庭で一般的に作っている春巻きだそうだ。春巻きを作りながら、交わす彼女たちのおしゃべり、そして、たどたどしい日本語で話しかけてくれる彼女たちの笑顔、なんと明るく、屈託のないきれいな笑顔だろう!!
サービスは作られるものではなく、醸し出されるものだと彼女たちを見て思った。