与侈(よぼこり)日本のポジターノ?

2017-09-19 22:44

村人も、その名前の由来を知らないという、与侈(よぼこり)。最初に耳にした時、なぜこの名前なのだろう、どんな意味があるのだろうと興味をそそられた。その名前に惹かれて村を訪ねた。国道197号線から瀬戸内海側の道を少し下ったところから、村の全景がみえてきた。海へのスロープに建てられた家々とその向こうに広がる瀬戸内海の開けた風景を見た瞬間、私のイメージは、イタリアソレント半島の世界に知られた、高級リゾート地、観光名所のポジターノが浮かび上がった。
スロープに建てられたどの家からも美しい瀬戸内海が見渡せるのだろう。住宅は海辺にはなく、少し山間の小高いところに建てられている。海辺の港には、数隻の漁船がつながれている。かつては、漁業の町として栄えていたという。





上から見た風光明媚な村々の光景とは裏腹に、哀しいかな、漁港から急な坂道を登り、村の路地をあるいてみると、ここにも、そこにも、人の気配のない空き家、空き家。この村に限らず、ここ一帯、恐らく日本中の殆どの村々が直面している過疎の問題だろう。




佐田岬半島によく似た地形のソレント半島(アマルフィ海岸)


よく似た地形と気候のイタリアソレント半島の村々はどうだろう。ポジターノやアマルフィ等、世界に知られたリゾート地、観光地のみならず、沿岸のかつては小さな漁業の村々、山間の、小さな農業の村々に、イタリアのみならず、ヨーロッパ各地から、自然豊かな美しい風景と、温暖な気候、さんさんと降り注ぐ太陽に惹かれて、休暇を楽しむため、芸術活動のため、あるいは、レストランや宿舎等の起業のため、人々が訪れ、また移住しています。村は、村をあげて、村のコーディネートをし、村の規則を作り、美化や、住居規制や、観光促進に取り組んでいます。

ここ、私達の村々はどうだろう?どこへ向かおうという村の方向性をもち、村民が意識し、浸透しているのだろうか。与侈のような美しい村は、他にも点在している。まずは村が、そして、町、郡、県がコーディネートに力を貸し、多角的な潤いを生み出して欲しい。
高齢化に伴い、過疎化はこれからも止めようがないかもしれない。人が増えないまでも、我々住民が空き家の合間に住むのではなく、少ない住民が主体の、心穏やかに、楽しく暮らせる村であることを願いたい。



平家谷 平家落人伝説

2017-08-31 10:10

平家の落人伝説は、西日本のみならず東北方面まで幅広く残されています。関門海峡の壇ノ浦での、平家、源氏の最後の合戦に敗れた平家の落人たちが、源氏の追っ手から逃れて密かに暮らした隠れ里。その一つと伝えられている里が、佐田岬半島の付け根に近い、保内の山の中に、’平家谷’と呼ばれてあります。
ウィキペディア他言い伝えによれば、この里には8人の落人が逃れて隠れ住み、一帯を開墾して、農業を営みながらひっそりと暮らしていたようです。しかしおよそ3年がすぎる頃、源氏の追っ手に怯え、逃れられないと覚悟をして、6名が切腹して果て、子孫を残すため2人だけを残したとされています。
4月末、みずみずしい若葉に覆われた平家谷に行ってきました。
佐田岬への国道197号線から、瀬戸内海方面に抜ける378号線にはいり、1kmほど走ったところで、平家谷への急峻な峠越えの道にはいります。走るに連れ、標高が高くなり、車窓からみる谷に小さな集落がへばりつくように見えます。日本の里山らしい美しい光景です。
平家谷は、川沿いにあり、自然林の梢のざわめき、そしてせせらぎの音が涼やかに聞こえてきます。その清涼な川水の流れを利用した、そうめん流しが4月末から8月末まで営業され、夏の風物詩として近隣からツーリストを呼び寄せています。平家神社は落人の鎮魂の為に建てられたのでしょう。そして、私はみていませんが、更に獣道を登ったところに、安徳天皇を祀った塚があると表示されていました。子供の頃から、我々西の人間は、源氏ではなく、平家系、平家ゆかりの民族と思っていました。もちろん定かではない、個人的な空想です。平家谷へは、国道を離れて車で約20分。ここが両面を海に囲まれた佐田岬半島の一部ともいえなくはない、もう一つの佐田岬の顔です。ぜひ、ちょっと足を伸ばして下さい。

平家谷へのアプローチ


自然林が残る幽玄な山中

平家神社

夏の風物詩 そうめん流し



みずみずしい若葉の季節。この峠を超えれば瀬戸内海へ。落人たちの故郷への想いを風にのせて。



昔ながらの麦味噌作りレポート

2017-07-17 22:18

私が子供の頃、佐田岬半島、ことに私の村周辺は段々畑で、平地がなく、農作のメインは、はだか麦と芋でした。地形的に、米作りが難しかったのです。
収入源としてのはだか麦と芋の出荷に追われる傍ら、農家の女たちは、家庭の食のための、みそやひがし芋、かんころとよばれた乾燥芋をつくっていました。
かつては、どの家でもその家の一年分の味噌作りをしていたものですが、今日では、その手間や、道具、場所の問題もあり、さらに気軽にスーパーで手に入るため、殆ど見られなくなりました。
子供の頃から、手作りの味噌を食べてきて、その味を忘れられず、できるかぎり引き継いでいきたいと願う、4名の主婦の味噌作りが、ここ数年、緒方家で梅雨のこの時期におこなわれています。麦味噌はこの地方の伝統で、少し甘めであることが特徴です。味噌作りの取材をさせて頂きましたのでレポートします。


味噌作り材料
丸麦(はだか麦)
米(もち米)
米麹
大豆



味噌作り初日
丸麦と米を洗ってザルにとり布を敷いた蒸し器に入れ、蒸し上げる。緒方家では昔ながらのかまどと羽釜を使っている。
羽釜から湯気が出てから約10~15分。蒸しあがった丸麦と米をむしろにとり、まぜながら冷ます。
少し冷ましてから、種麹を振り混ぜる。
むしろあるいは箱に移し、紙、むしろをかぶせ、さらに布団をかけて寝かせる。高温、湿度の高い部屋が良い。



左前から:よねちゃん、ふみちゃん、後ろ左からよしえさん、きょうこさん(味噌作りの先生役)素敵な仲間です。


味噌作り2日目

約24時間寝かせた後発酵した ’豆板’ (発酵して表面に白い花が咲いた状態)を混ぜ合わせる。 ’一度起こす’ と言うそうです。潰さず、混ぜるだけ。
室温37℃~38℃、豆板の温度、40℃~42℃位
一度起こして混ぜると温度が下がり、熟して柔らかくなり早く食べれるとのこと。
熟すことを’つわらす’と表現していました。
もう一度寝かせる。




味噌作り3日目(最終日)
一晩水につけておいた大豆を炊いて、柔らかくなったら、ミンチ器にかける。
再度発酵した豆板を器に移し、ミンチにした大豆を混ぜ合わせ、よく練り込む。(潰していく)
味噌の状態になったら、空気を抜きながら丸めて保存桶にいれ、腐りどめ、変色止めのために、上から塩をふりかける。
2~3週間位寝かせて出来上がり。




この味噌を使った代表的な郷土料理に’さつま汁’があります。
あじやべらの魚を焼いて、身をほぐし、すり鉢で味噌、ピーナッツをあわせて擦り込み、水または、魚の残った骨やあらで取っただし汁をくわえて、麦をまぜたご飯にかけて、薬味として、ネギやごまをのせて食べます。



3日間の味噌作りを見学させて頂きながら、かつての村の人々が、畑仕事の合間や、雨の日に、家族ぐるみで、あるいはご近所が集まって、こうした作業を共同でしていた時代があったことを実感しました。緒方家のように、作業ができる広い庭があり、納屋や、家の中の片隅を作業場にして、朝夕発酵の香りとともに生活をしていた時代。防腐剤も、化学調味料も入らない、健全な食と、祖母や母の手のぬくもりが感じられる食。当たり前の時代だったのでしょう。
私は今回、味噌作りがこんに大変な労働であることを体験させて頂きました。今日、手軽に手に入る食材、自由な時間、便利な機器、私達の生活は、子供の頃よりずっと豊かに、贅沢になりました。しかし、豊かさの質はどうだろうか?そして、私達が本当に豊かさを感じているだろうか。手作りの味噌の味はもちろん、今回は人生の’味’をたっぷり感じさせて頂きました。
味噌作りは,各家庭に寄って、作る時期、作り方が多少異なるそうです。

自然の庭 ターシャ・テューダーの世界 

2017-06-25 08:59

ターシャ・テューダーはアメリカの絵本作家。同時にスローライフの元祖と言われ、ナチュラルライフを送るターシャの生き方はガーデナーの憧れであり、世界の人々に知られています。ターシャ・テューダーの世界を彷彿させる自然の庭が、佐田岬半島のほぼ真ん中,高茂に開放されていて、ターシャの生き方に共感するターシャフアン、ガーデナー、そして、自然を草花を愛し、あるいは自然の中にただ身をおいてくつろぎたい人々を惹き付けています。。高茂は芸能人、はるな愛の両親が、開発団の一員として住んでいたことで、近年地元TVでも紹介された地域。大手企業、ダイワハウスグループが全国14箇所に展開するスローライフをスローガンとしたリゾートのひとつで、日本各地からこの地に惹かれた人々が、定住あるいは別荘として、趣向を凝らした家を建てています。
。ここに17年前に神戸から一組のご夫婦が移住してきました。大利ご夫妻です。およそ1000坪の広大な敷地に理想とする家を建て、荒れ地にちかい敷地内の木を切り、草を刈り、少しづつ、現在の自然の庭を作り上げてきました。お二人はターシャ・テューダー同様、自然の営み、自然の力を理解し、その中での暮らしを楽しんでいらっしゃるようです。
様々な人生を生きてる多くの人々が、しばしでも憩いとなることを願い、ここを訪れる人々を心より歓迎して下さっています。さらに、大利夫人の植物の知識は、単なる博識ではなく、地元の呼び名や、それにまつわる話、移住してから歩き回った佐田岬半島の山々や村など話題は多岐に渡り、庭をご案内頂きながら、飽きることなく楽しめます。
自然故に、四季折々、雨の日、晴れの日、朝、夕方と表情を変える庭。ヤマガラや目白、カワラヒワなど、佐田岬の自然を凝縮したような鳥たちの訪れもここならでは。海のイメージの強い佐田岬半島のもう一つの魅力が凝縮されています。
庭はいつでも自由に散策できるよう開放して下さっています。お天気のいい一日、お茶を持ち、あるいはお弁当を持ち、あるいは本を抱えて、東屋で爽やかな風と鳥の声、折々の花や木々を楽しみながら、スローな一日を過ごしてはいかがでしょうか?


まず、ターシャ・テューダーのパネルが出迎え、大利家の自然の庭へアプローチ






佐田岬13里 灯台もと暗し

2017-06-03 17:06

ゴールデンウィ-クのよく晴れた一日、佐田岬灯台へいった。2017年4月1日、佐田岬灯台は点灯100周年を迎えた。
記念事業の一環として、佐田岬灯台のお化粧直し、そして、灯台の下にある小さな島、御籠島を陸続きで行けるようにし、モニュメントを建てた。それを起爆剤として、町は佐田岬、伊方町のプロモーションに邁進している。
佐田岬灯台と対岸の佐賀関、関崎灯台までの距離はわずか13km。20世紀初頭の外国船の来航や日本の海運業が盛んになったことで灯台の必要性が高まり、まずは佐賀関の関崎灯台が1901年に建てられ、そして、1918年に佐田岬灯台が点灯した。佐田岬半島と佐賀関の間の豊予海峡は「速水の瀬戸」と呼ばれ、潮流の速さと岩礁の多いことで航行の難所とされていた。(さだみさきフリークVol.2 町見郷土館発行資料より)灯台の明かりは、航行する船の船乗りにとって、まさに命の光となったことと想像できる。
佐田岬半島の長さは俗に13里と言われ、13里は、現在の測量単位で約52km。三崎港までは国道197号線の快適なドライブコースとなっているが、三崎港から灯台までの道はなかなかの難所。曲がりくねった道が約30分程続く。灯台の駐車場から、灯台まではさらに徒歩約20分の距離。ここがまたまた難所。下って、登って下って登る、ちょっと辛い道。しかし、辛さの中に楽しみもある。木陰の心地よい遊歩道、時折見える、瀬戸内海、太平洋の海、自然の植物など、ちょっとしたご褒美だ。
やがて灯台が見えてくる。灯台への階段を登る。あの、素晴らしいパノラマに出逢うための最後の試練だ。


灯台への遊歩道を歩く




これまでもその感動の為に、何度か足を運んだ。しかし、今回、さらなる感動に出会った。灯台の階段下を右手の道を下っていくと御籠島へと続く。養殖池をまわり、御籠島のスロープを登ると豊予海峡のパノラマが広がり、振り向けば佐田岬灯台が凛とした白亜の姿を現す。よく晴れた日で、豊予海峡の向こうに、九州の佐賀関や別府が見渡せた。点灯100年祭のイヴェントの一つとして’永遠の光’と名付けられたモニュメントが建っている。
しかし、ただ風光明媚を満喫するだけにはさせてくれなかった。御籠島には、第二次世界大戦の爪痕,洞窟式砲台跡があり、砲台のレプリカが置かれている。佐田岬半島の瀬戸内海側の対岸には、呉港があり、戦時中、佐田岬半島の村々の上空を戦闘機が飛んでいったと、父母から聞いたことがある。佐田岬半島の沿岸を中心に、大正末期から昭和初期にかけて,砲台や監視所が作られ、今日もその痕跡を見ることができる。
2016年、観光プロモーションの一環として、日本ロマンチスト協会&日本財団による、’恋する灯台’プロジェクトが開始、佐田岬灯台が日本の21に設定された一つに選ばれた。日本最西端の日本一長い半島の白亜の灯台がロマンに満ちているということだろう。今回は、怠けて行かなかったけれど、灯台の手前に椿山展望台があり、そこは恋人たちのデートコースとして、ハートのオブジェが設置されている。
佐田岬灯台は日本の灯台100選にも選ばれている。1998年(平成10年)11月1日、海上保安庁が、灯台記念日のイヴェントとして、一般から募集した灯台100選である。
佐田岬半島が風光明媚な国立公園であることを、意外と地元のは意識していないのではないだろうか。もっともっと、誇りに思い、もっともっと自慢して、我が村への、我が故郷への想いを高めて欲しい。(資料の一部は、町見郷土館発行のさだみさきフリークVol.2を参照にしています。)


御籠島へ





灯台展望台にて