みかんの季節です。

2017-12-10 22:26

10月下旬から12月後半にかけて、温州みかんの収穫期。みかん農家の皆様の一年でもっともハードな季節です。日本のみかんの生産地は、日本のみかん発祥の地和歌山を始め、愛媛、静岡、熊本、そして長崎などとなっていますが、愛媛みかんの定評はもちろん、その中でも我が西宇和郡のみかんは最高品質であると自負しています。太陽と潮風、段々畑の石垣の照り返しがこの地方の美味しいみかんを育てると言われています。温暖な気候に、潮風、南に面した段々畑の日照時間と日照量が、糖度と酸味のバランスのよい美味しいみかんを作るのだそうです。
’暖かいこたつにみかん’はなんとなくほのぼのとした日本の冬の風物詩。私は3年前からみかん採りの手伝いをして、そんな風物詩を作り出しているみかん農家のご苦労と手間暇を知ることができました。みかん農家に限らず、りんごの農家も、柿の農家も、冬の鍋に欠かせない白菜やネギ、きのこの農家も大変なご苦労をしていることが偲ばれます。
ここでは私が体験したみかん農家の暮らしを是非皆様に知って頂きたいと思います。


一度ハサミを入れてきったみかんを他のみかんを傷つけないように2度切りする。

採れたみかんの運搬は何よりの重労働! 山でのランチ、美しい風景とおいしい空気が何より!

みかん畑から宇和海を望む。絶景! イノシシの被害、台風被害、そして空からは鳥の被害!


みかん農家の一年:
11月から温州みかんの最盛期、1月から5月頃までポンカンやデコポン、清美など晩柑と呼ばれる柑橘類の収穫。1月消毒、同時にみかんの木の伐採作業を随時、6月摘果、木の枝の剪定、草刈りは年に数回、6月から9月まで1ヶ月に1回の割合で消毒、害虫がでれば更に消毒回数が増える。一年中仕事が絶えることはありません。

収穫期の、あるみかん農家の主婦の一日を伺いました。
起床5:00,弁当作りと義父の朝食、昼食準備。6:30みかん山へ。みかん採り開始7:00~7:30。10:00 みかん採りのアルバイターへのお茶準備、午後4:00、みかん採り終了、義父の夕食準備をしてすぐに倉庫へ。みかんの選別、箱詰め。午後9:00、夕食準備、食事、風呂、洗濯。午前1:00~2:00、入出金管理、同封の請求書作成、翌日の段取り。2:00就寝。収穫期の2ヶ月余り、平均睡眠時間は約3時間から4時間とのこと。


山での仕事を終えてから倉庫へ。みかんの選別。この作業は長年の経験で培った目が必要。誰でもできる作業ではない

長年身をもってみかん農家の経営にたずさわってきたここのご主人は、息子を後継者にしたくないといい、そして、次に生まれたときは農家にはならないという。みかん農家というハードな仕事は自分の代だけでいいと。みかん農家の高齢化、後継者不足によって年々みかん農家は減少し、みかんの畑地も荒れてきています。そして、イノシシやハクビシンの被害が、ますす増え、さらには台風による被害も大きかったといいます。
それでも畑に生きる人々は、体は酷使しながらも、太陽の下で働き、甘いみかんのできた喜び、子供や孫との時間を楽しみ、仕事の後の家での寛ぎに満たされているのでしょう、彼らの顔はとても明るくいいシワを刻んでいるように見えます。子どもたちは、そんな父母の背中を見て育ち、そして、誇りに思うことでしょう。
私は、こうした地方にあって、農家が農業で生計を立てられない、あるいは、農業を続けられない国は、決して豊かな国ではなく、国策で農業を守れない国に将来性はないと思います。なぜなら、農業は人間の命の根源であるから。

塩成 村の秋祭り

2017-10-16 16:12

塩成の村の秋祭りは、毎年10月の第二土曜日、日曜日に行われている。土曜日が宵祭り、日曜日が本祭である。宵祭の朝、村の一宮神社で、五鹿、唐獅子の奉納踊が行われ、その後一宮神社から出発し、五鹿、唐獅子それぞれが一軒一軒家々を訪ね、家の前、中庭、あるいは近くの広場を利用して踊ってご祝儀を受ける。まさに、山田洋次監督の映画、"ふーてんの寅さん"の世界を彷彿させる何とも言えないほのぼのとした日本の伝統的村祭りの光景だ。
私が子供の頃は、五鹿の踊りは中学生が、唐獅子の太鼓は小学生の子供、踊りは大人という役割になっていた。村の過疎化で子供や若者がほとんど居なくなった今日、かろうじて残った村の子供、若者、そして村を出て町や都会で学生や社会人となった若者たちがお祭りに帰省して引き継いでくれている。定年をすぎた男たちも、若者たちの指導だけでは許されず、今も現役として踊り手の役割を担う。




うさぎは五鹿の先導役


雌鹿を追いかける雄鹿たち。雌鹿が家の中に駆け込み、厄払いをする。

お面をとった若者たちの素顔が清々しい


ある人の説によると、五鹿は東北4県と愛媛県のみで見られるという。江戸時代の東北伊達藩から発祥したものと思われる。
南予は伊達政宗の嫡男が移封されたところ。南予各地で見られる五鹿の踊りは、おそらく時を経てそれぞれの村の気性にあわせ少しずつ変化したものだろう。衣装もまた少しづつ異なっている。
優雅に踊る五鹿もあればリズミカルに踊る五鹿もある。私は我が村の躍動的な五鹿踊りが好きだ。
本祭の午後、海岸通で練りが行われる。祭り最高潮だ。人口200人程の村が、この日は300人以上になり、祭りを盛り上げる。


本祭で’チョーヤサー’の掛け声とともに一軒一軒駆け込み厄払いをする。老若坂道を必死!

本祭の海岸通りでの練り。担ぎ手不足でお神輿も車付きだけど、精一杯祭りを盛り上げる。

四つ太鼓の子供たち。そして唐獅子の太鼓踊りの小学生。この子達に良い思い出と故郷への想いを託す。


日頃、人がいるのだろうかと思うほど静まり返った村に、年に一度、若さのエネルギーが躍動する。’今時の子、今時の若者’とよく聞くけれど、世代世代に連綿と続く言い草。今時の若者たちは、自分たちなりに、やるべきことを考え、責任を感じ、精一杯生きている!と感じる一日。かつて我々大人もそういう時代があった。
過疎化により、いつなくなってしまうかわからない村の秋祭りに村人は心を痛めつつ、今年も祭りができたことに感謝している。

与侈(よぼこり)日本のポジターノ?

2017-09-19 22:44

村人も、その名前の由来を知らないという、与侈(よぼこり)。最初に耳にした時、なぜこの名前なのだろう、どんな意味があるのだろうと興味をそそられた。その名前に惹かれて村を訪ねた。国道197号線から瀬戸内海側の道を少し下ったところから、村の全景がみえてきた。海へのスロープに建てられた家々とその向こうに広がる瀬戸内海の開けた風景を見た瞬間、私のイメージは、イタリアソレント半島の世界に知られた、高級リゾート地、観光名所のポジターノが浮かび上がった。
スロープに建てられたどの家からも美しい瀬戸内海が見渡せるのだろう。住宅は海辺にはなく、少し山間の小高いところに建てられている。海辺の港には、数隻の漁船がつながれている。かつては、漁業の町として栄えていたという。





上から見た風光明媚な村々の光景とは裏腹に、哀しいかな、漁港から急な坂道を登り、村の路地をあるいてみると、ここにも、そこにも、人の気配のない空き家、空き家。この村に限らず、ここ一帯、恐らく日本中の殆どの村々が直面している過疎の問題だろう。




佐田岬半島によく似た地形のソレント半島(アマルフィ海岸)


よく似た地形と気候のイタリアソレント半島の村々はどうだろう。ポジターノやアマルフィ等、世界に知られたリゾート地、観光地のみならず、沿岸のかつては小さな漁業の村々、山間の、小さな農業の村々に、イタリアのみならず、ヨーロッパ各地から、自然豊かな美しい風景と、温暖な気候、さんさんと降り注ぐ太陽に惹かれて、休暇を楽しむため、芸術活動のため、あるいは、レストランや宿舎等の起業のため、人々が訪れ、また移住しています。村は、村をあげて、村のコーディネートをし、村の規則を作り、美化や、住居規制や、観光促進に取り組んでいます。

ここ、私達の村々はどうだろう?どこへ向かおうという村の方向性をもち、村民が意識し、浸透しているのだろうか。与侈のような美しい村は、他にも点在している。まずは村が、そして、町、郡、県がコーディネートに力を貸し、多角的な潤いを生み出して欲しい。
高齢化に伴い、過疎化はこれからも止めようがないかもしれない。人が増えないまでも、我々住民が空き家の合間に住むのではなく、少ない住民が主体の、心穏やかに、楽しく暮らせる村であることを願いたい。



平家谷 平家落人伝説

2017-08-31 10:10

平家の落人伝説は、西日本のみならず東北方面まで幅広く残されています。関門海峡の壇ノ浦での、平家、源氏の最後の合戦に敗れた平家の落人たちが、源氏の追っ手から逃れて密かに暮らした隠れ里。その一つと伝えられている里が、佐田岬半島の付け根に近い、保内の山の中に、’平家谷’と呼ばれてあります。
ウィキペディア他言い伝えによれば、この里には8人の落人が逃れて隠れ住み、一帯を開墾して、農業を営みながらひっそりと暮らしていたようです。しかしおよそ3年がすぎる頃、源氏の追っ手に怯え、逃れられないと覚悟をして、6名が切腹して果て、子孫を残すため2人だけを残したとされています。
4月末、みずみずしい若葉に覆われた平家谷に行ってきました。
佐田岬への国道197号線から、瀬戸内海方面に抜ける378号線にはいり、1kmほど走ったところで、平家谷への急峻な峠越えの道にはいります。走るに連れ、標高が高くなり、車窓からみる谷に小さな集落がへばりつくように見えます。日本の里山らしい美しい光景です。
平家谷は、川沿いにあり、自然林の梢のざわめき、そしてせせらぎの音が涼やかに聞こえてきます。その清涼な川水の流れを利用した、そうめん流しが4月末から8月末まで営業され、夏の風物詩として近隣からツーリストを呼び寄せています。平家神社は落人の鎮魂の為に建てられたのでしょう。そして、私はみていませんが、更に獣道を登ったところに、安徳天皇を祀った塚があると表示されていました。子供の頃から、我々西の人間は、源氏ではなく、平家系、平家ゆかりの民族と思っていました。もちろん定かではない、個人的な空想です。平家谷へは、国道を離れて車で約20分。ここが両面を海に囲まれた佐田岬半島の一部ともいえなくはない、もう一つの佐田岬の顔です。ぜひ、ちょっと足を伸ばして下さい。

平家谷へのアプローチ


自然林が残る幽玄な山中

平家神社

夏の風物詩 そうめん流し



みずみずしい若葉の季節。この峠を超えれば瀬戸内海へ。落人たちの故郷への想いを風にのせて。



昔ながらの麦味噌作りレポート

2017-07-17 22:18

私が子供の頃、佐田岬半島、ことに私の村周辺は段々畑で、平地がなく、農作のメインは、はだか麦と芋でした。地形的に、米作りが難しかったのです。
収入源としてのはだか麦と芋の出荷に追われる傍ら、農家の女たちは、家庭の食のための、みそやひがし芋、かんころとよばれた乾燥芋をつくっていました。
かつては、どの家でもその家の一年分の味噌作りをしていたものですが、今日では、その手間や、道具、場所の問題もあり、さらに気軽にスーパーで手に入るため、殆ど見られなくなりました。
子供の頃から、手作りの味噌を食べてきて、その味を忘れられず、できるかぎり引き継いでいきたいと願う、4名の主婦の味噌作りが、ここ数年、緒方家で梅雨のこの時期におこなわれています。麦味噌はこの地方の伝統で、少し甘めであることが特徴です。味噌作りの取材をさせて頂きましたのでレポートします。


味噌作り材料
丸麦(はだか麦)
米(もち米)
米麹
大豆



味噌作り初日
丸麦と米を洗ってザルにとり布を敷いた蒸し器に入れ、蒸し上げる。緒方家では昔ながらのかまどと羽釜を使っている。
羽釜から湯気が出てから約10~15分。蒸しあがった丸麦と米をむしろにとり、まぜながら冷ます。
少し冷ましてから、種麹を振り混ぜる。
むしろあるいは箱に移し、紙、むしろをかぶせ、さらに布団をかけて寝かせる。高温、湿度の高い部屋が良い。



左前から:よねちゃん、ふみちゃん、後ろ左からよしえさん、きょうこさん(味噌作りの先生役)素敵な仲間です。


味噌作り2日目

約24時間寝かせた後発酵した ’豆板’ (発酵して表面に白い花が咲いた状態)を混ぜ合わせる。 ’一度起こす’ と言うそうです。潰さず、混ぜるだけ。
室温37℃~38℃、豆板の温度、40℃~42℃位
一度起こして混ぜると温度が下がり、熟して柔らかくなり早く食べれるとのこと。
熟すことを’つわらす’と表現していました。
もう一度寝かせる。




味噌作り3日目(最終日)
一晩水につけておいた大豆を炊いて、柔らかくなったら、ミンチ器にかける。
再度発酵した豆板を器に移し、ミンチにした大豆を混ぜ合わせ、よく練り込む。(潰していく)
味噌の状態になったら、空気を抜きながら丸めて保存桶にいれ、腐りどめ、変色止めのために、上から塩をふりかける。
2~3週間位寝かせて出来上がり。




この味噌を使った代表的な郷土料理に’さつま汁’があります。
あじやべらの魚を焼いて、身をほぐし、すり鉢で味噌、ピーナッツをあわせて擦り込み、水または、魚の残った骨やあらで取っただし汁をくわえて、麦をまぜたご飯にかけて、薬味として、ネギやごまをのせて食べます。



3日間の味噌作りを見学させて頂きながら、かつての村の人々が、畑仕事の合間や、雨の日に、家族ぐるみで、あるいはご近所が集まって、こうした作業を共同でしていた時代があったことを実感しました。緒方家のように、作業ができる広い庭があり、納屋や、家の中の片隅を作業場にして、朝夕発酵の香りとともに生活をしていた時代。防腐剤も、化学調味料も入らない、健全な食と、祖母や母の手のぬくもりが感じられる食。当たり前の時代だったのでしょう。
私は今回、味噌作りがこんに大変な労働であることを体験させて頂きました。今日、手軽に手に入る食材、自由な時間、便利な機器、私達の生活は、子供の頃よりずっと豊かに、贅沢になりました。しかし、豊かさの質はどうだろうか?そして、私達が本当に豊かさを感じているだろうか。手作りの味噌の味はもちろん、今回は人生の’味’をたっぷり感じさせて頂きました。
味噌作りは,各家庭に寄って、作る時期、作り方が多少異なるそうです。