アトリエ・カフェ PiPiオープン

2022-04-13 17:53

ブログが長い間更新されませんでしたが、アトリエ・カフェ Pi・Piオープンの準備に多忙を極めていました。オープンをしようと決めたのは2月の立春。2カ月で改装、登録等を進め、4月1日にオープンしました。Uターンで帰省してから、ずっと、この風光明媚な佐田岬に、魅力的な休息の場が少ないことを残念に思っていました。そんな折、1年半前に、店主が病気で休業したレストランが、そのまま、空き店舗状態になっていたものを、店主のご厚意によって、低家賃でお借りできることになりました。ただ言い続けるだけでなく、行動に移すことは、私のポリシーでもあり、地元の方、友人、私の家族他、多くの方々のご協力を得て、オープンすることができました。
メロディーラインのちょうど真ん中あたり、メロディライン(国道197号線)から塩成への下りの三崎方面側、ロケーションとしては最高の位置にあります。
四国で第1号と言われる道の駅、瀬戸農業公園が、この4月で一度クローズされ、郷土館が来年度をめどに建つことになりました。郷土館に併設して道の駅ができ、そして、テナントが入る計画となっています。テナントは、私も長く期待していたカフェやレストランが予定され、同地域に様々な店舗や、施設ができることは、相乗効果を生みだし、人が集まりやすくなります。
カフェふ~ちゃんは、継続していきますが、カフェふ~ちゃんと、コンセプトも客層も異なってくることと思います。PiPiが、地元活性化の一役を担う存在になるよう、努力するつもりです。
現時点での営業は、週末の金・土・日の3日間、11:00-16:00のランチ・カフェタイムです。

Pi・Piオープン後のご報告はまた次回に!!!

 
 
  

古墳時代のロマン 古道笠置峠へ

2021-11-26 13:21

木々の色づきに秋の深まりを感じ始めた10月下旬、古道笠置峠を歩いた。日本の歴史といえば、大和、九州博多、東北等、歴史ロマンを彩る地域が念頭に来るが、私たちの住む、四国の南予の端っこに残された歴史ロマンに新たに感動した。どんな小さな村にも、どんな山深い里、辺鄙な海辺の町や村にも、日本が生まれた時からの歴史が遺されている。ただ,書見にならず、史書に残されず、また人々にも語り継がれていないだけなのだろう。

笠置峠の頂上に紀元4世紀の古墳跡が遺されている。4世紀と言っても中々ピンとこないが、4世紀の日本は、大和大国、卑弥呼の時代から半世紀から1世紀後、史上、古墳時代と呼ばれる時期。イタリアではローマ帝国のコンスタンチヌス帝がキリスト教を認め、東西分裂の最後の頃、中国ではかの有名な三国志のあと、魏によって統一されたと思われた中央が、匈奴などによっていくつかの国が作られた五胡16国時代と呼ばれる時期。

笠置峠の古墳は西南四国最古の前方後円古墳で、当時この一帯を治めていた王(豪族)の古墳であると、説明されている。笠置峠古墳の他にも、この一帯には、5世紀後半頃と言われる岩木赤坂古墳、6~7世紀頃(古墳時代後期)と言われるナルタキ古墳群、7世紀後半と思われる東大谷古墳、7世紀から8世紀頃と思われる西ノ前遺跡等、郷土の歴史ロマンを彷彿させる遺跡、古墳群が遺されていることを私は初めて知った。




こんもりとした古墳の頂上まで、石段を登っていくと王(豪族)の墓がある。

標高約400mの古墳の頂上から、宇和盆地(左)、そしてはるか佐田岬半島(右)が見渡せる。

笠置峠古道は後年になって、九州方面からの四国遍路の巡拝者が、八幡浜に近い札所、明石寺との往来に利用された遍路道であり、江戸時代には、宇和島藩の参勤交代にも利用されたほか、古くから庶民の生活道であったと資料に残されている。
峠への入口は、八幡浜方面からは、釜倉と呼ばれる地域から、西予市宇和方面からは、JR伊予石城駅から徒歩10分ほどの、安養寺に近い登り口から、笠置峠古墳まではいずれも、徒歩約50分から1時間。私たちは八幡浜方面釜倉から登り、宇和安養寺に下山した。



笠置峠の看板が道案内をしてくれるが、これは今日の事。かつてはもっと山深かったに違いない。

籠立場跡は参勤交代の籠を休ませたところだそうだ。石畳がいつの頃かわからないが古人の努力が偲ばれる。


峠の茶屋、峠の地蔵、遍路墓等、江戸後期から大正にかけて、地元の人々が古道を引き継ぎ守ってきた痕跡を見ることができる。

古墳頂上から、宇和への道沿いには、自生する植物の看板が目を引く。下りはさらに急で、宇和盆地が見渡せていたのだろうものい獄、峠を往来する人々の憩いの場として、豊富な水をたたえた大清水や馬頭観音などの旧跡を見ることができる。

日本を代表する奈良や京都の歴史でなくとも、身近な生活圏の歴史をたどることは、自分たちのオリジナルをたどること。あるイタリア人が、故郷を思うことは、自分たちのルーツを大事にすることといった言葉が印象に残っている。

MISA高-岬の小さな町の小さな高校から

2021-11-09 09:46

講堂を揺るがす若者たちの叫びを久しぶりに聞いた。心とからだが震える位、嬉しくなった。2021年MISA高学園祭。オープニングは、MISA高応援団と吹奏楽部の高らかな響き。若者や子供たちの叫びやはしゃぐ声をを聴くことのなくなった小さな町、村の我々世代は、つくづくかつての活気のあった時代を思い出したことだろう。

四国の最西端にある、日本一細長い佐田岬半島のほぼ先端に建つ、愛媛県立三崎高等学校(愛称MISA高)。昭和26年(1951年)創立、戦後の最も出生率の高かった時代に必然的に創立された高等学校だ。当時、昭和30~40年代頃、佐田岬の各村で中学を卒業した生徒たちは、約半数は、金の卵とほめそやされ、都市の工場へと就職し、半数が、苦しい家計の中からも、高校へと進学した。佐田岬は4つの地域に区画され、先端から、三崎町、瀬戸町、伊方町、そして、付け根に保内町があった。高等学校の選択肢は主に、県立三崎高校、県立川之石高校、県立八幡浜高校、そして、同八幡浜市に県立八幡浜工業高校があり、ほぼそのいずれかに進学した。三崎高校は場所柄、瀬戸町、三崎町の学生がほとんどで、まだ、メロディーラインもなかった時代、男の子は、アップ・ダウンの坂道を必死に自転車をこいで、女の子は登り下りを歩くかバスで通っていた。

三崎高校は、創立から70年を経て、少子化と過疎化の波を受け、ここ数年存続の危機にさらされている。現在、生徒数、3年生、30名、2年生69名、1年生、67名。1昨年前、3年生の生徒数30は、独立学校としては成り立たたず、このまま続けば、八幡浜高校の分校となることになっていた。

そこで、地元の人々、そして、学生自身がその危機感をしっかりと受け止め、様々な活動に乗り出した。小学校の廃校が続き、中学校が統一され、学校のない村の寂しさをひしと感じている人々の想いが、行動を起こさずにいられなかったのだろう。


 
高台に建つ学校から、三崎の町と三崎港がわずかにみえる。中庭の紅葉、文化祭のバザーが始まる。

 
 
五つ鹿、稚児舞、唐獅子、佐田岬の各村で少しづつテンポや踊りが異なるが、秋祭りを代表するものである。

 

 


2020年、MISA高は、文部科学省の’地域との協働による高等学校教育改革推進事業(地域魅力化型)の指定を受け、当面の分校を免れた。
MISA高の生徒たちは、地域住民と一体となり、地域活動はもとより、オリジナルの特産品を生み出したり、日本全国への生徒募集のための工夫をしたり、積極的な交流を心がけ、MISA高を愛し、存続のためのあらゆる努力をしている。結果,昨年、本年の入学者は増加し、また、地元のみならず、日本各地から生徒が集まった。

今年の文化祭もその一環として、過疎化、少子化はもとより、ここ2年間のコロナ過の影響で、消えゆくすんでん迄危機に陥った郷土芸能を引き継ぐ取り組みを行った。聞くところによれば、都市部から入学した生徒達には、思いがけない体験として、感銘しているという。
田舎にUターンあるいは、移住を戸惑う理由に、教育と医療が立ちふさがっているが、小学校の複式学級であれ、一学年、一クラス、10人ほどの生徒であれ、だからこそ、一人ひとり、個性や成長にあわせた細やかな教育ができることは理想ではないだろうか。事業家にしろ、政治家にしろ、未来は著名大学卒の理屈と数字に支配された脳ではなく、人のいる世界の体験、不足の中から生み出す努力を学ぶ小さな町の小さな学校の若者たちに夢を託したい。

そばを打つ

2021-09-11 15:15

この夏は、8月半ばの長雨の後も、夏らしい夏にはならなかった。9月初めも残暑とはいえ、曇りがちで、さほどしのぎにくさはない。
そんな一日、そばの種まきをした。そして、別に収穫されたそばをそば粉にして、そば打ちの体験をさせて頂いた。
趣味とはいえ、趣味を超えた、こだわりのそば打ちに熱中している上田氏の段取りである。


まずは計量。一人前のそば、今回はそば粉105g、水50g


次にリハーサル。そば打ちで最も難しいのはそば切りだと上田氏は言う。均一に細く切るコツを習う。
そして本番。ボールの中に、計量したそば粉と水を入れる。そして、粉を切るように混ぜてゆく。

混ぜながら、ボールの中でまとめて、さらに手でまるめる。丸めた生地を手で伸ばし、その後麺棒で四角い形になるよう、角を作りながら2-3度伸ばす。伸ばした生地を均一に0,5mmの厚さにするため、厚さ1cmの2本の棒ではさみ、次に厚さ0.5mmの棒ではさんで均一の生地を作る。



できた生地を半分に折り、リハーサルをした、そば切りに入る。


なかなかうまくはいかないが、切ったそばを少量ずつ取り上げ、粉をはたき、10割そばのできあがり。茹で時間は20秒から30秒。季節によって、麺が切れやすいので、暑い季節はぶっかけそばがいいかもと上田氏の意見。


上田氏のすごさというか、こだわりは、そば打ちのテーブル(回転テーブル)から、その台を置く足、そして、最初に切りながら混ぜる器具、1cmと0.5mmの棒、そば切り用のまな板と、等間隔にするための道具、総て彼の手作り。さらには、そばを植え、収穫をし、そば粉を石うすでそば打ちの前日にフレッシュな状態で打てるように挽き、試作を重ね1人前のすべて天然のフレッシュなそばにこだわっている。打ちたてのそばの香り,こし,食感、贅沢な一品だ。私見を言えば、上田氏の言うとおり、そば切りがコツ、均一に細く切られたそばと、私が切ったばらばらの太さのそばで味も食感もかわる。自分で打った満足とベテランの味をはかりにかけてしまう。



そばの種まきと収穫

そばの種まきは梅雨が明けた、7月中旬から、8月下旬にかけて。8月下旬に植え付けたそばは、11月頃新そばとして楽しめる。



等間隔に溝をきる。

切った溝にほぼ均一に種を落としていく。見事な溝を切る器具も、均一に、また、手間をかけずに種を蒔くこの、荷車のような器具も彼の手作り。江戸時代から使われていた器具で、当時はもっと大きかったようだ。町見郷土館に保管されている器具を参考に手作りしたという。

そばの種。まいて1週間程で、芽がでてくる。

やがて、花が咲き、実がなり、3ヶ月後には収穫し、そば粉を挽くことができる。

ミカン農家で摘果作業デビュー 

2021-07-10 20:26

7月初旬、温州ミカンの摘果作業のお手伝いに駆り出された。初めての体験で、どの果実を落としていいのかわからないから、無理だと断ったが、誰でも大丈夫と言われ、体験をすることにした。一つの木に、枝に、なりすぎている実を手でもいでゆく単純作業。摘果することにより、商品になる実を残して育てる。

ひたすら、二つ重なっている実は一つに、数個鈴なりになっている実も一つに、手を動かしていく。素人の私には、こんなに落としていいのか、さらには、素人の私が残す実を選んでいいのか、ちょっと罪悪感があった。落としても落としても、生産者のご主人はまだ落としたりないという。落とさなければ9月に再度摘果をするときに大変な労力になると。11月下旬の温州ミカンの収穫の手伝いをしているが、肉体的には摘果作業はずっと楽なはず!だが、特に初日は単純作業と常に手を上に伸ばしているせいか、右手も左手もひきつってしまい、帰宅してからの疲労ははんぱでなかった。80過ぎ、70過ぎの生産者や協力者がひたすら仕事をしている姿を見ては、怠けられない。

以前のブログで、ミカン農家の1年を取材して記載したが、その中の作業のひとつ。生産者は1年中休むことがない。


左2枚 生産者の方は80を過ぎて、一人でいくつかのミカン畑を管理している。温州ミカンだけでなく、デコポン、せとかなど。ミカンの摘果の合間にミカン畑の除草,消毒すべて一人でこなす。が、地元の強力な友人、彼もまた、ミカン生産者であり、70を過ぎて一人で自分の畑を管理しているが、何かとボランティアで手伝ってくれる。


今年はまた、たわわになった実。うれしいが、商品となると別だという。選別(?)されてどんどん落とされる実。

佐田岬半島の付け根に近い集落、大浜はもともとブランドである日の丸ミカンの産地でもあったという、ミカン生産に適した地。ミカン畑はここ大浜に限らず、斜面に沿った日当たりのよい風光明媚な土地につくられている。写真左は大浜の村と沖に黒島、そして、右手の女子(めっこ)岬、その先に佐田岬半島の先端への岬が見えている。右の写真は、大浜の先にある佐島、その沖合が大島、そして右手に黒島。黒島も佐島もかつては人家があったそうだ。


摘果されたみかん。見た目には徳島の名産スダチにみえる。摘果したみかんを拾って持ち帰った。そして、半分に切って、絞る。スダチのようなジューシーさはなく、ほんの一、二滴だけだが、その香りがふわーと広がり、カルパッチョでも、焼酎のロックでもそのひと絞りで驚くほど香りを楽しめる。生産者の彼が言うには、この摘果ミカンは髪を潤す商品に使われコマーシャルされているという。が、ここでは単に畑の肥やしになっている。商品化できないものかと、つくづく自治体の無力を感じてしまう。