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村の小さな金毘羅様 川の浜

2020-09-20 10:35

佐田岬半島のほぼ真ん中、佐田岬一の海水浴場が自慢の川の浜村から、メロディライン(国道197号線)への道路を10分ほど登ったところに、金毘羅神社が建っている。いつ頃建立されたのか、記録を探せなかったが、おそらく明治の頃ではないだろうか。老朽化が進み、今年、建て替えることになった。
前回、このブログで紹介した塩成の村の大工の棟梁に依頼が舞い込んだ。おそらく、この半島で宮大工ができるのはこの棟梁しかいないであろう。技術のみならず、その建物に寄せる’想い’を感じさせる大工の棟梁だ。

金毘羅神社は、香川県琴平町の金毘羅神宮を本山として、全国に600あるというが、その数の中にこの小さな神社は含まれていないだろうと思う。佐田岬のほとんどの村には小さな金毘羅様がある。金毘羅様の主神は大物主大神。国を造ったとされる大国主命の’にぎたま’と言われているそうだ。資料によれば、江戸時代、船での流通が盛んになて海運業や商人に広く信仰されるようになったとのこと。そして、海の安全を願う漁師や船乗りの守神としての信仰が広まった。

村の金毘羅さまはそんな前下りは必要ないほど、質素で庶民的で、村の中に溶け込んでいる。しかし、かつては村人が集まってお祈りし、お祭りをしていたであろう神社は草木に覆われた山の中にたたずみ、今や訪ずれる人もまばらのようだ。
今でこそ、車で近くまで、登ってこれるが、かつては海岸沿いの村から山道を登り、参道にたどり着いてからもさらに登ってきたことだろう。その面影が残されている。


半島一の海水浴場を自慢する川の浜の村

かつては海を見下ろしたであろう金毘羅さまへの参道



山間にたたずむ小さな社、匠の技


金毘羅さまの本体が安置され、最後の掃除も棟梁は手を抜かない。


完成した金毘羅さま。10月に金毘羅様のお祭りがあるという。

毎年、台風に襲われ、冬には海も荒れる。天気の良い穏やかな日には、海はきらきらと輝き,ゆったりとたゆたう。私たちはそんな自然の中で大きく胸を開き呼吸ができる。心の中の神々に感謝しながら。

宇和海に浮かぶ八幡浜の離島 大島ショット

2020-09-17 07:57

日本一細長い佐田岬半島の付け根、港町で知られる八幡浜市。八幡浜市から12km、宇和海に浮かぶ離島大島がある。350年前までは無人島だったが、対岸の八幡浜市穴井地区から、庄屋が7人で渡り、漁業を生業として村がひらけたという。島には美しい海水浴場があり、昭和40年ころにはおよそ2万人もの海水浴客が島を訪れたという。現在は、ここにも過疎化の波は容赦なく、約200人の人口と村の人が言っていた。島は5つの島を合わせて大島と呼ぶというが、基本は大島と地大島。住民はほぼ大島に住んでいる。
島への足は、八幡浜から一日3本の定期船。高速艇で22分で到着する。昨年、島に大島テラスがオープンし、船の待合所、カフェ、レンタサイクル、観光案内など、島観光の拠点となり、それによって、観光客が徐々に増えつつある。それでもなお、何もない、しかしゆったりと流れる時間と自然、静かな暮らしがある。


島の観光パンフレットコピー、島への定期船。定期船は約80名乗りと約40名乗りがある。
観光客だけでなく、島の人々、そして島への流通の交通に欠かせない。


八幡浜の定期船出航待合室と港。港の側に、道の駅みなっと、と魚市場、そして、どーや市場がある。
八幡浜と九州別府、臼杵を結ぶフェリーの船着き場も隣接。今回は下見気分で、11時30分出発の定期船で大島へ向かう。

大島へ向かって、右手に佐田岬半島、左手は、諏訪崎、真穴地区など、どちらも定評ある温州ミカンの産地が続く。



大島へ到着。時が止まったような町中、島のおじさんが,島中だろうと笑った。漁師町らしい佇まい。
ハイビスカスが何となく南国を思わせる。




大島と地大島の間に浮かぶ山王島。大島と山王島をつなぐ橋。そして島の名所のひとつ、山王島と地大島を結ぶ橋。海面すれすれの橋は海が荒れれば通れなくなる。そしてあまりにも美しい景色に目を奪われ、橋から落ちかねない。島の人々の足は徒歩と自転車。島のおばあさんが三輪車をひきながら橋の途中まで渡り、それから、三輪車に乗って通り過ぎて行った。


ん?大島にモン・サン・ミッシェル!?いえいえ、島一番の見どころ、貝付小島とエンジェルロード。干潮時のみエンジェルロードが海面に表れて島へ渡れる。ラッキーなことにその時間に行き当たった。が残念ながら今回は下見のみで渡る時間がなかった。


午後1時30分大島発の高速艇で、八幡浜へもどる。一時間半の大島体験だったが、レンタサイクルでほぼ一周できた。お勧めは午後4時40分大島発まで、大島の止まったような時間の中でのんびりすること。

佐田岬半島のほぼ真ん中の、塩成からみた大島。佐田岬半島からは、場所によって、一つの島に見えたり、二つに分かれた島に見えたりする。我が家のテラスからは一つの島で、大島はずっと大きな一つの島だとおもっていた。

もう少し時間があれば、もっともっと大島の魅力を発見できたであろう。竜王神社に参拝し、竜が住むという伝説の竜王池、シュードタキライトと呼ばれる珍しい地震の化石、そしてエンジェルロードを渡って貝附小島をぐるりと探検、浜辺でお弁当など、次回の楽しみにとっておこう。

お地蔵様 八十八ヶ所めぐり

2020-06-25 19:54

2020年 6月の梅雨の合間の晴れた一日、地元老人会の皆様がお地蔵様のエプロンかけをした。老人会女性会員が、布をもちより、ミシンを使ってエプロンを作り、男性会員がエプロンを村のあちこちに点在するお地蔵様にかけて歩いた。塩成の村でエプロンをかけたお地蔵さまは94体あったという。実際にはもう2~3体あるだろうが見つけられなかったという。四国は弘法大師ゆかりの地であり,お四国八十八ヶ所巡礼が盛んである。それにちなんで、佐田岬半島の村々にはお地蔵様八十八ヶ所があるという。実際に四国八十八ヶ所に経済的、あるいは肉体的に行けない人たちも、日常の生活の中で巡礼が叶う、村の人々の信仰の篤さをを物語っている。

 
車道に並んだお地蔵様。かつては山の中に踏み固められてできた本道沿いに並んでいたのを移したものだろうと言われている。
   

四国八十八ヶ所霊場巡礼の歴史を紐解けば、室町時代以降にさだめられたとみられる八十八の寺院と急峻な山や谷を歩き、その間の仏堂を巡る488里(約1952km)の修業だったとある。江戸時代から一般庶民も巡礼をするようになった西国三十三ヶ所観音霊場や、熊野詣でなどの一つと言われると書いてあった。

塩成の村にいつ頃人が住むようになったかは、瀬戸史によれば2つの説があるのではないかとある。九州方面の漁師が時化で漂着した説、そして、もう一つは源平合戦(壇ノ浦の戦い1185年)で敗れた平家の落人が住み着いた説。平家の落人説は、佐田岬半島のいたるところで語られているのは、人々の願望であろうか。以前ブログで紹介した’平家谷’をみれば、おそらく平家の落人がこの半島にもたどり着いたに違いないと思う。
そんな平家の落人にかかわる言い伝えが塩成の村に残されている。
旧国道197号線の一番西に位置する村の一角は、地元では’西上’と呼び、ここが塩成発祥の地と思われる。かつては、このあたり一帯は’ナツポイド’または’魍魎(もうりょう)’と呼ばれたそうだ。
ここに、先徳大師をまつった祠がある。祠の中を覗くと石仏が祭られているが、一見ただの石に服を着せているみたいだ。諸病平癒と子育てのご利益があると言われる。
先徳様の由来は、いつの頃か、先と徳という夫婦が平家の落人の墓として、毎日供養していたが、幾年過ぎた頃、夫婦とも亡くなった。この夫婦の徳を慕って’先徳大師’と名付けられたそうだ。

 
 
ナツポイド、あるいは魍魎(もうりょう)と呼ばれた頃の本道。
  
 

     先徳大師を祀る祠。昭和の中期、一度火事で焼失したのを寄付を募り建て替えられた。
他にもお大師様や、平家の落人の話を、村の古老の方から聞いたことがあるが、今ではその方たちも亡くなり、言い伝えで残された歴史は消えつつある。

塩成(Shionashi) 風に立つライオン 私の散歩道

2020-05-18 15:09

塩成、人口約200名、高齢化率50%を超えるか?という小さな村、私の故郷。海の大波止場の付け根に、ライオン岩がある。あの岩を見るたび、私は、さだまさしの’風に立つライオン’’をイメージする。我が村塩成を体を張って守っているイメージである。人によっては、あの岩を‵犬岩’と呼んでいるそうだが、私にはライオン以外にイメージできない。
佐田岬半島のほぼ真ん中、半島の付け根の八幡浜市より、メロディーライン(国道197号線)で約22km。車で約30~40分に位置する。メロディラインが貫通したのは昭和62年(1987年)、それまでは旧国道197号線が海岸に沿ってくねくねと走っていた。その頃は、三崎めぐりのバスが1日2~3本、塩成まで約1時間半かけて走っていた。海岸沿いに、八幡浜から船の航路もあった。いくつかの村の波止場に立ち寄り、やはり1時間半ほどかかった。バスにせよ、船にせよ、曲がりくねった道、荒れた海の航路は、かなりきつかった記憶がある。
塩成から、隣の村、加周までの旧国道、約7kmが私のお気に入りの散歩道である。
私はかつて、佐田岬半島を、日本のアマルフィと呼んである記事を書いた。世界的に有名なイタリアの風光明媚なアマルフィ海岸に地形や気候風土がよく似ていると思っている。

メロディーラインの貫通により、ほとんど車も人も通らない道は、また人の手も入らず道路沿いの灌木が生い茂ってほとんど海が見えなくなっている。それでも、灌木の途切れた一角から望む海の青さ、透き通った海水は、アマルフィに勝らずとも劣らない美しさである。
木漏れ日の落ちる道、鳥や潮騒の音楽、切り立った崖や深い山。人の手の入らない自然の魅力か、アマルフィ海岸のように人の手による魅力か。


ライオン、それとも犬にみえますか?





灌木が生い茂り、海とも空ともつかぬブルーを垣間見る


塩成の村へ戻る

つい最近、TV番組の、イタリアの小さな村の物語で、ある村の男性が言っていた。村に残るも出ていくもいいが、自分の生まれた歴史は知っておくべきだと。

さくら川(塩成川)沿い奥の細道を歩く

2020-05-03 12:28

小さな小川沿いに桜の木があるわけではないが、さくら川と名付けられた小川、あるいは塩成川、地元では大川とも呼ばれる小川がある。遠い昔は桜の木があったのだろうか。子供の頃から、この小川は飲み水でもあり、洗濯もし、川遊びもしていた。川沿いにはかつて田んぼもあったような記憶がある。川の上流に奥の池があり、子供の頃は、底なし沼と言われ、子供心にとても怖かった。かつては川沿いにも田畑があり、山林があり、村の人々も頻繁にこの道を通っていた。わずかな記憶だが、いつの季節か,川焚きと呼ばれる、村の人々が飯盒を持って、河原の石で竈を作りご飯を炊いて楽しんだ思い出がある。それほどに,川は村の人々に密着した存在であった。現在は、川沿いの田畑はほとんどなくなり、山林の存在もよくわからず、この道を通る車もほとんどない。それでも奥の池は、今日も村の水源として管理されている。そして私にとっては、自然を体いっぱい感じられる奥の細道、散歩道である。この道をたどっていくと、佐田岬半島を貫いて走る国道197号線、メロディーラインへ通じている。



さくら川沿いの道は緩い坂になっている。せせらぎの音を聞きながら、爽やかな川風のイオンに包まれ、少し行くとシイタケ栽培をしている木々の一角があり、道は奥の道と山への道へ別れる。5月下旬から6月初めにかけてはホタルが飛び交う。



さらに歩いていくと、ここが背と腹がくっついているくらい狭い佐田岬半島の一角かと疑うほど、深い山の中に入っていく錯覚におちいる。道の先から、あらいぐまの子供かな?ゆっくりと歩いて山に入っていった。


かつての面影がないほど、自然に帰って行ってしまった道だが、奥の方に、きれいに石垣が組まれ、しっかり手入れされてる柑橘畑がある。季節はミカンの花が香る頃、なにやらほっとする。



その先に、いよいよ奥の池が現れる。水源であると同時に、冬、ここにはオシドリが休息にやってくる。鴨の姿もみえる。深い緑をたたえた池は底知れない、子供の頃の底なし沼を思い起こさせる。




奥の細道沿いには、この地方、特に佐田岬半島ならではの様々な植物や鳥が楽しめる。さくら川と名がついているが、実際には山椿が多くみられる椿街道とも言える。むさしあぶみ(武蔵鐙)と呼ばれるこの植物もこの一帯には多くみられる。さらに、サンキラと呼ばれる植物、地元ではマキノ葉と呼んで、ちょうど5月の節句の頃、きれいな緑の葉がみられ、柏の葉の代わりにこのサンキラの葉を使って、柏餅が作られていた。懐かしい母の味である。
もしも災害や何かの問題が起きて、避難し、サバイバルが必要なときは、なんといっても水のある川や池の近くに逃げるのがよい。その意味ではこのさくら川沿いの奥の細道は生きるためには十分な素材があると言って過言ではない。春から初夏にかけては、イタドリ、ヨモギ、つくし、つわぶき、ハコベなどが食材となり、川には川エビが、ちょっときついが小動物に鳥。でも考えたくない生活。やっぱりのんびりと散策やウォーキングを楽しみたい。
観光地になるほどの要素はないけれど、こんな場所がある。国道197号線、メロディーラインをまっしぐらに走るだけでなくちょっと、メインストリートを外れて、マイナスイオンをたっぷり浴びてみてはどうだろう。

information:
メロディーライン、瀬戸農業公園道の駅から塩成方面へ下る。旧国道197号線を川の浜方面に向かい、塩成小向、西上地区の間にさくら川(塩成川)が流れている。